むかしのことば
ぜんぶで 2672 こ / 6 ぺーじ / いま 5 ぺーじ
やっと詩の話題、フランスやロシアの象徴詩人がおもかな。 "シニフィアンの自律的な喚起という実験"や"言語の含意的な能力を、爆発し、超含意的であるようなところまで強化している"『#蜂起』p.25 といった象徴詩人の試みは俳句における季語の喚起力・超含意的と似ている。
そうですね。しかもたぶん吉本隆明『共同幻想論』と同じ手法です。"単純化すれば、国家が幻想であるなら別の、より強固な幻想によって打倒できるはずだからである。"(絓秀実『1968年』ちくま新書)のように金融資本主義が詩ならより強固な詩によって打倒できるはずだ、みたいな #蜂起
#蜂起 牽強付会ですみません。ベラルディのいう"poem/poetry”も〈これまで見過ごされてきた価値を掘り起こす〉〈自身の思考や違和感を表現し、社会に問いを投げかける〉手段/手法かもしれません。
"言語的および情動的な視点から言えば、破産は、言語を交換に還元してしまうことから逃げるための道筋である。"『#蜂起』pp.24-25 破産のすすめ。言語を交換に還元する「言葉の自動化」は貨幣化・金融サイクルへの服従とインデックス化の2段階により生じているという。職業ライターの仕事や映画宣伝の「全米が泣いた」を連想しました。
サイバネティクスについては消化不良だけれど、サイバネティクス(フィードバック→情報)を張り巡らせた結果が技術-言語的なオートマティズム(AIや検索エンジン)であり、制御されたswarm群衆化なのだろう。だからビフォのいう〈詩〉はサイバネティクスの外側にあるもので、身体感覚や欲望は〈詩〉の結果なのかも? #蜂起
西の県の夏休みプレゼント主義る祭りの濃度を4倍にした感じ。
句例。間に多々何のたる羽田さんかな貸し。こんなン出ましたけど。
自由な繫がりが詩には必要と捉える一方で、余りに意味を解体してしまうと検索エンジンと認知が変わらなくなるのでピラカンサの句はビフォの目指す表現ではないかも。ホイットマンは身体感覚や欲望から強いて遠ざかろうとしなかったのでビフォの想定に近そう。
序章の最後の段落で引いているのはブレイクの地獄の格言の一節。"The road of excess leads to the palace of wisdom."
https://poets.org/poem/proverbs‑hell 箴言集の為散文的。「詩と言語の脱自動化」では繰り返し今ここ、身体、感覚と述べているので頭でっかちや観念的な表現は退けるだろうと思う。
#蜂起
まだ詩が出ている箇所まで読んでいません! ただ読んだ箇所までで予想すると形式ではなく、語彙体系をぶっ壊すような表現をする詩なのかなと思っています、〈サイゼリヤ近親者らがぴらかんさ/鴇田智哉〉みたいな。ビフォのいう〈詩〉はどういうものだとみなさんは捉えていますか?
#蜂起 ベラルディのいう〈詩〉はどういうものか。定型律? 自由律? ラップのライム?ウォルト・ホイットマンのようなやつ?
浮世離れした中央銀行責任者や、煽る株売人、即ち現代市場の弁護士(avocat)から言葉の鰐梨(avocat)を取り上げ焼き払え。#蜂起
言葉の簡素化に抗って伝統や芸術の立場から嘗ての又は斬新な意味を付与する。意味内容の偏在を搔き乱す所が富の再分配に似ている。詩人や論客はえぐい、だるい、エモい、すごい等蘞怠族の連帯語に結果的に挑戦する羽目になる。身体的な感覚を呼び起こす為に感情の形容詞ではなく客観写生を徹底するのもこの一環か。#蜂起
他著引用感恩。詩的言語はたしかにことばと意味の一対一のindex的対応を外して境界線を超えるだろう。でもコスモス(世界)は誇大かな
crowdがGoogleのような技術-言語的なオートマティズムによってswarmとなり #蜂起(Noや批評など異議申し立て)できない現状について述べていると思います。swarmは蜂起しないmobかと
#蜂起 ベラルディ『第三の無意識』The Third Unconscious邦訳版p.37コロナ禍にある人びとが記録しつづけた事実から著者は言語による〈調和のとれた変化形態〉を予言する。〈書くという行為は、煎じ詰めればコスモス〔世界〕にかかわる詩的活動であり、われわれに境界線を越えていくことを可能にしてくれるエネルギーにほかならないからである〉
#蜂起 crowdをswarmとすることによってmobとなり蜂起できる、という理窟でしょうか?swarmは蜂起しないmob?
"デジタル時代の権力は、要するに物事を簡単にすることだと言うことができるだろう。"(『#蜂起』p.22.ll.1-2)や「共通の認知パターン」などはユニバーサルデザインにも通ずる。crowd群衆+過密でいて簡単な情報ネットワーク=swarm群体・畜群という構図が見える。
群体いいですね、群生・群落、いずれもネットワークでつながる感じがあります。ただビフォはswarmをその中にいると全体の動きにNoも言えないと批判的に捉えているのでswarm≒畜群という訳もありでは? #蜂起
swarmは素早く動く集団、crowdは統率下にない集団らしい。中国語のwikipediaでは前者を群体、後者を群衆と訳しているので倣うべきか。
ここではcrowd群衆のほうがてんでバラバラに動く有象無象のニュアンスでしょうか。ネットワークによって蜂の群れのように一斉に動く方がswarm群衆とされています。そんなswarm群衆の動きのなかにいたら「No」も言えない、まるてまどこかの国のように。#蜂起 crowdの訳語は群衆でいいとして、swarmは群衆以外の訳語が欲しいところ。
いや、これswarmを群衆と訳した次の段落でcrowdも群衆に訳して、その次の段落のswarmも群衆に訳している。引用のマルチチュードを補完するのはネットワークとswarm群衆。マルチチュードそのものはcrowd群衆として説明されている。
#The uprising p.14ですね。swarmは〈群衆〉というより〈有象無象〉というニュアンスがあるようにおもいます。
群衆の元の言葉はcrowdかmobかcommunityか混乱する。網絡と並ぶ語だから共同体だろうか。
"現在の社会的な主体性についてもっと理解したいならば、マルチチュードの概念を、ネットワークや群衆の概念で補完する必要があるだろ。"(『#蜂起』p.20)ここらへん翻訳の問題だと思うけれどマルチチュードと群衆がごっちゃになっている。群衆のほうが調整された存在?
ブルトン提唱の自動記述は自由だが、確かに規範的且つ羈絆的な自動反応に従っていたのか。習慣から抜け出る為に類義語を考えたり調べたりしている心算で政治的適切さの囚われに向かっていたのか。でも、自分では使わないと決めている語はある。後、個人的に差延を大和言葉で隔たりとしたくなる。
作品に添えられる著者名は責任の所在を示す以外にはあまり意味はなくなり、作品はおおきな人類という作品の一部として生成AIの糧となる未来。それもまたおもしろい未来なのかも
差延différanceみたいですね。イタリア自律運動とフランス脱構築は親和性ありそう #蜂起
エロティックやセクシーなどの言葉を額面通りに官能的だととらえることも、ビフォの言う技術-言語的なオートマティズムが、社会的身体の隅々まで配線されてしまっているような状況なのかもしれません
小泉環境相の「クール」「セクシー」発言は環境問題=印象論という揶揄だと当時捉えていたなぁ
体を動かしてとか身体的なとか此の身に根差したとか自らとか幾らでも適切な形容が思い付く。態々官能語彙に暴露する必要がある程市民は耄碌していない。それとも爆発的に増殖する電妄人は実際に愚かなのだろうか。
セクシーに解決すると仰った当時環境相の息子の事も思い出す。ただただ下品で無意味。
1970年のイタリアAutonomia運動の人なので周回遅れもいいところでしょう。ただ「芸術家がなぜ政治的発言をするのか」という問いがまだまだ有効なほど政治と芸術と学問が接すれど噛み合ってこなかった日本でどういう意味が生じるのかは興味があります。特に、似た趣旨の詩幣が半ば嫌悪や違和感とともに迎えられた地方都市・浜松で
もとを辿れば外山恒一「私には建設的な提案なんか一つもない。今はただ、スクラップ&スクラップ、全てをぶち壊すことだ!」
フランコ“ビフォ”ベラルディの発想は〈遅れて来た青年〉ならぬ周回遅れのbeatnik poetという感じがします。
#蜂起 立花孝志的(もっと言えば2001年の小泉純一郎的)な発想でしょう。壊しゃあいいってもんでも無いんですけどね。
"一般的な知性のエロティックな身体を、意識的に動員したり、詩的なかたちで言語を再活性化することだけが、新しい、社会的な自律性を出現させる路を切り拓くことになるだろう"(『#蜂起』p14.ll.14-16)あたりかな。HAMAMATSU ReCreation LABO りくらぼ〈おむすば〉で「言語と社会の秩序をぶっ壊す!」と叫んでいたけど、詩作より詩的発想かも
生成AIの書いた詩が、人間の書いた詩を凌駕してしまう未来もあり得なくは無いでしょう。もっと言えば、人間の詩作のオリジナリティは、どれほど優秀かつ独創的な生成AIを所有できるか否かにかかる未来もあり得なくは無い、と言えませんか?
#蜂起 フランコ“ビフォ”的には、詩作こそがわれわれのもとに主体性を取戻しうる唯一(?)の手段だ、ということでしょうか。
"技術-言語的なオートマティズムが、社会的身体の隅々まで配線されてしまっているような状況のなかで、わたしたちは主体化のプロセスをどのように考えることができるのだろうか?"(『#蜂起』p19.ll.11-13)の技術-言語的なオートマティズムはGoogleの検索結果やいまの生成AIを指すとしたら、この問いかけはまさに今の問題かも
元浜町の平野美術館で遠州南画の200年を観ました。趣味をとおしたネットワークを地域で切りとる。
ありえますね。コロナ禍後のウクライナ・パレスチナ・イランなどの紛争、日米伊などの政権交代は"混乱に対して混乱の強度が増していくような反応は、システムが正のフィードバックを示しているということになる"(『#蜂起』p19.ll.12-13)昨夜の浜松駅北口広場での平和憲法を守るための緊急アクションin浜松もまた反応でしょう。
#蜂起 2020年からの新型コロナウイルスのパンデミックにより、さらに〈新しい枠組〉が設けられた、というか、地球民のわれわれが設けた。いかがでしょう?
惑星上の日常生活における新しい枠組みを示唆するという東日本大震災についての記述"福島の影響が社会生活に混乱をもたらすようなことはなく、毒は日常生活の通常の機能となり、わたしたちが暮らさなくてはならない第二の自然となったのだ。"(『#蜂起』p17.ll.5-7)
『#蜂起』p.14.ll.8-11に「マーストリヒトの規則」EUのマーストリヒト条約?を「ドグマ、アルゴリズム的な公式、魔術的な呪文」と呼んでいるのが数値化でしょう。「欧州中央銀行の高僧」というのが丘の上の牧人Hirteっぽいですね。
数値化して治める事が問題。人間全体はまだまだ数値化出来ない具体的な課題に溢れているのにそれを無みして利益を貪る。壟断。丘の上からは人々の顔や体の一々など見えない。それこそ見ろ、人がごみのようだとでも言い出しかねない。
"金融権力は、不安定な認知的労働、つまり身体から乖離させられた今日の一般的な知性を搾取することに基づいている。/今日の一般的な知性は、断片化されていて、自己認識や自己意識を疎外させられている。"(『#蜂起』p.14.ll.12-14)搾取や疎外がむずかしいですが、商業活動のためにほんとうに自分がやりたいことを見失っているという感じかな
Liebe zum Fernstenですね。"最も遠くにある未来が、君の今日の原因となるべきだ。"(フリードリヒ・ニーチェ、森一郎訳『ツァラトゥストラはこう言った』講談社学術文庫)
遠州人には遠人愛を持つ人も居る。鄰人愛と遠人愛が共存する社会になれば良いのに。 #蜂起
#蜂起 ごめんなさい。〈2021〉を2011と訂正します。〈ぽぽぽーん〉〈こだまでしょうか〉など一連の公共広告機構の音声と映像に〈蜂起〉の気をそぐサブリミナル効果があったのでしょうね。
そういえば2011年の今年の漢字は「絆」でしたね。絆も"精神的オートマティズム"のひとつだったのかも。同時にそういった絆や繰り返し流れる「ぽぽぽぽ~ん」のACのCMへの反発があって、そういった反発は"一般的な知性"が再活性化された兆候であったのかも。もちろん蜂起には至りませんでしたけれど。 #蜂起
#蜂起 いや、日本も2021年の震災後、蜂起すべきだったのです。1968年、同時多発的に当時の学生たちが〈蜂起〉したように。しかし日本は〈がんばろう!〉〈上を向いて〉〈花は咲く〉などと国民の心の柔らかいところに訴えかけるメッセージの発信が甚しく、蜂起の芽が削がれたのだとおもいます。
そうですね。"五月、六月のスペインのアカンパーダ、イギリス郊外の八月の四夜の暴動、そしてアメリカのストライキやオキュパイ運動の波"(『#蜂起』p14)と列挙していますが、震災と福島原発でまったく記憶にありません。ウォーラーステインの1848年や1968年に匹敵する革命≒蜂起の年だったのでしょうか?
#蜂起 日本人としてはやはり東日本大震災、それしか無いって感じで、世界の動向に関心をむける余裕は正直なところ殆ど無かったと記憶しています。
月見の紙マルシェ~本と文具~場所:袋井市月見の里学遊館 文字文/ものづくりワークショップルーム/市民サロン/日時:2026年6月20日(土)21日(日)
10時~15時(予定)/内容:書籍・ZINE・文具の販売/ワークショップ/ギャラリー/カフェなど
『#蜂起』読書会はじめます。まずは序から。2011年が"ヨーロッパにおける蜂起の元年"(『蜂起』p.13.l.1)2011年後半には欧州債務危機とデクシア銀行の経営破綻とギリシア・イタリアで政権交代などがあったらしいから蜂起。2011年ってなにか記憶あります?
明日からここで『#蜂起』読書会をはじめます。もちろん、ふだん通りのことばも書かれるといいな。理想は読書会のことばへふだんのような返事が書かれ、ふだんのことばへ読書会の返事が書かれるような、書物と現実の生活とがつながり、混じり合う匿名掲示板
閉店間際のスズキコーヒー焙煎所(磐田市森下)へ珈琲豆を買いに。書棚のほかに陶器の展示も
駐車場から県立美術館と県立中央図書館まで歩く道沿いにあるところですね!
静岡市駿河区谷田の県立大学芝生園地。お弁当どんどんTV CMの撮影地。
ユニバーサルデザインは多くの人へ情報を伝えられる。けれど単に表現が幼稚になることがある。そうなると言語で思考しない層にしか響かず、言語で思考する層は物足りなさを感じる。ユニバーサルデザインは、ときに異論を唱えない畜群を率いる牧人の道具にもなる。
いえいえ。どこの街も、駅前を再開発すると似たような感じになっちゃいますよね。
こちらこそすみません。タイルの感じが似ていたもんで
〈無料で聖書が学べます〉。然り。図書館にこもれば好きなだけ〈無料で〉まなべる。
静岡県西部で花祭りに花御堂を出して甘茶をふるまうところ、鴨江寺のほかにあります?
8時すぎ、ホームライナー静岡4号、安倍川橋梁てまえで減速。徐行して終点静岡駅構内に入る。浜松から乗って鈍行(って、いま言わないんだっけ)とほぼ変らない速さ。8:07着。
市井の日記・エッセイといった記録は大切ですよね。でもわざわざ書かれていないこと(トイレや食事作法とか)が文化として重要なこともあります
自由律。寝ぐせ半日さらに夜風にみだるる 何日ぶりの星冴えわたる 吹き荒るるこの風はあくる朝の寒さ
つくづくおもう。山頭火がマメに日記をつけたおかげで昭和初期の日本の状況がよくわかる、と。ただ、昭和5(1930)年以前のものが存在しない(山頭火本人が焼却した由)のは惜しい。
1号線バイパス米津東交差点の東に、天府という中華料理屋がある。むかしは香港という店名で、餃子が福みつみたいな揚げ系でニンニク臭くて食べると二日は臭いが抜けなかった。もういちど食べたい
山頭火が誤って五月二日と記録しており、正しくは五月三日です。
1939(昭和14)年5月2日附の日記ですね。朝、西渡(久根銅山で賑わっていたであろう頃)から徒歩で水窪まで。奥領家までの徒歩はあぶないと勧められて白神(しらなみ。今はダム湖)までの峠越え。途中雷雨にあうもどうにか白神駅まで辿りつき、まだ新しい三信鉄道(今のJR飯田線)に乗り満島(今の平岡)駅で下車、宿泊した日に詠んだ句ですね。
佐久間駅に隣接する佐久間図書館。佐久間地区の裏鹿(浦川)に蘭方医・三輪見竜がいたおかげで尾上栄三郎が吉田(豊橋)から飯田を経てこの地へ来て病没、浦川歌舞伎がはじまったとのこと。三遠南信のつながりを感じる。
天竜区は佐久間駅のちかくにある大学堂さん、たこ焼きは羽根付きで紅生姜が効いていて蛸もぶりっぶりに大きい。
世にもてはやされている「文化」とはLand der Bildungの「文化」なのかもしれない。教養の国とも
無理しないでくださいね。あ、そうそう、西渡といえば、かつてその近辺に久根銅山があって、西渡から佐久間方面へ斜面づたいにゆくと(集落は、かつての鉱山の町でした)、鉱業施設の跡があるはずです。
ありがとうございます。ちょうど北遠本線と飯田線の乗り換えできるところを探していました。佐久間駅〜西渡の5キロメートルならなんとか歩けないこともなさそうですが、すっごい山道!
〈インフォメーション〉と言い條、交通に精通していない職員が多いですよね。①〈飯田線で〉どうしても飯田線を利用したいなら豊橋駅までJRで行くことを勧める。②〈浜松駅から佐久間・水窪まで〉遠鉄で西鹿島まで。自主運行バス北遠本線だと終点が水窪支所(旧水窪町役場)。佐久間(中部天竜)まで行くなら途中の西渡(さいと)で乗換すべし。
浜松駅の浜松市観光インフォメーションセンターで「飯田線で水窪や佐久間へ行きたい」と言うと案内してくれず「山ですよ」「お好きな方はお好きですけれど」と遠回しに止めるよう促される。浜松市内なのに観光案内してくれない。
老中松平定信-谷文晁まわりのネットワークが有名ですよね、田能村竹田もそのネットワークに触れていたと思います。家中(藩)の垣根を超えるための南画というあり方に学ぶところもあります
新幹線に乗るのが文明。景色をたのしむのが文化(大喜利ふうに。あしからず)。
わたしが〈南画〉と聞いてまずおもいうかぶひとは田能村竹田(豊後岡藩)。南画の描き手は絵画のみならず詩歌も能くした。そのネットワークはかなり宏大なものだったらしい。
面白そう。ご紹介有難う。社交網だから割り引くが、投稿主も随分文化的に見える。静岡や浜松が文化後進の地とは妥当性を欠く。此処でも静岡は「希望の無い駅」ばかりとあるが、意味する所は特急新幹線の素通りで文化そのものの卑下ではない。所得に関わらず楽しめるのだから、経済指標が振るわない程度で見放す輩に耳を貸す必要は無いとの主張。
気付いたら中央の資本に土地を抑えられていたとのぼやきを聞いた事がある。私は気付いたら中央の資本に話題を制圧されていた経験がある。此の地方の発信者に誹謗中傷を送り付けるなどの妨害バイトが作業中かも知れない。発信者は何物にも阿らず自分の良心に従って粘り強く活動を続けて欲しい。耐えられなければブロックを検討しても良い。
他にも。「受注者は、市から提供された資料の内容及び業務上知り得た秘密や情報を漏らしてはならない。契約が終了した後も同様とする。」オープン?少なくとも住民からの開示請求を代表で行う程度の漢気が欲しい。怪しい噂が飛び交っているから。
「全日本漢詩連盟等の既存の協会から独立した漢詩の集まり」ってのが野心的
オープン・ミュージアム・ラボ、このスケジュールだけだと去年8月から浜松市が新しい浜松市美術館のため東京のコンサルに千万円以上を払った事実をずっと市民に隠してきたってことだろ? 刺し違える覚悟ないじゃん
そのジャンルの地位を高めるために出店者と来場者が「代表」で場所代をすべて支払う主催が「副代表」というイベントはあったけれど、今日私が出会ったイベントは場所代を一人に納め明文化されていないルールを破ればその一人に罰金を納めなおかつ会場設営作業を分担させるためだけの「みんなが主催」だった。
とつぜんの出世大名家康くんと出世法師直虎ちゃんである。
渦中の浜松市美術館。いまは足立美術館展を開催中、夏は「いま、私は現代アートと出会う」で草間彌生・奈良美智・村上隆・アンディ=ウォーホール・バンクシー……秋冬は「みほとけのキセキⅢ」ということで、テーマが大きいんですよね、毎回。噛み砕けていない感じか大きな受け皿を狙っているのか
ぜひオープン・ミュージアム・ラボへ提言してあげてください!
〈表現を売る人達〉、本丸南広場内で配置を変えました。
浜松城公園中央芝生広場のさくらまつりの方がキッチンカーも出ていてたのしそう
旋頭歌。〈表現を売る人達〉の幟はためく 大空も負けじと捌く大量の雲
浜松城本丸南広場の〈表現を売る人達〉。布製のお人形さん・恐竜シール・蕨やこごみなどの山菜・木製おもちゃ・静岡県西部の文芸誌『断食月』などを販売しているみたいです。
そうです、鎧掛松の広場。今日はピザーラやキッチンカーなどは来ていないみたい
〈新浜松市美術館〉への提案。いっそ所蔵品を売却(あるいは他施設に移譲)して、スペースのみとする。いわゆる〈藝術作品〉の展示だけで無く、コンサート(窓枠のようなライヴでもいい)、講演会などにも利用できるようにする。施設じたい、50年後に低コストで解体できるように低コストで建てる。はまホールの解体をみてつくづくそうおもう。
人は美術館、人は文化財、人は芸術品、情けは味方、仇は敵なり、ですね〜
Uホール(浜松市勤労会館)が先月いっぱいで閉館した。月がかわって、さっそく最寄バス停は〈牛山公園入口〉と改称。遠からずスクラップか。貸ステージ、貸スタジオとして存続できないのか。〈新浜松市美術館〉なんか作って、どうせ50年も経てばスクラップでしょう。松城町の市美、山下町の平野(私立だが)、二俣の秋野不矩の3館でじゅうぶん。
断ることを覚えたい。或る公園運営に携わる人から「このイベントはあなたじゃないとダメだと思って」と言われたけれど、私だけができてもしかたない。まちの他の誰もができるようになってほしい、きっとできるはずだから。なので、イベントにたずさわるとき、いらっしゃる方をお客さまと思ったことはなくて「次の主催者が来た」と思っている。
オープンと銘打っているのにオープンさを演出する気がないのか
新しい浜松市美術館の構想を練るならまずひらかれたワークショップを何回か開いてそののち構想のコアメンバーを決めればいいのに、オープン・ミュージアム・ラボのコーディネーターとかメンバーをあらかじめ決めて出しちゃうのはやりかたとしておそまつ
連帯などの強制に閉鎖性を感じた人が提唱したのが弱い紐帯。てんでばらばらな方向を見ている群衆がなんとなくネットワークでなんとなくつながる気がする感じ
連帯や連携という単語に惑わされるけれど、強制は絶対にいや。
炎上させて話題にしたい人は批判される余地を残しておくというけれど、炎上商法まんまとひっかかってますね。むしろ連携を疑うくらいに
オープン・ミュージアム・ラボ、浜松市民を"部外者"扱いされた方が協力しているけれど、浜松市美術館に市民の意見を取り入れる気はあるのだろうか、すでに一部の人選がクリエイター・ファシズムとなっている。
ローカルコレクティブ「オープン・ミュージアム・ラボ」コーディネーター:桂川美帆/空閑美帆。メンバー:江川野智典/大杉晃弘/鈴木力哉/柳本茉希/藤江寛司。協力:天野寛志/大石晃裕/小田伊織/坂田吉祥/白坂隆之介/林満里奈/藤本紗由美/宮下ヨシヲ。クリエイター・ファシストの方もいるけれどちゃんと部外者の意見をとりこめる?
訂正。〈兜掛松〉は、鎧掛松のまちがいです。いまさら、すみません。
〈地衣類は墓の礎石に繁茂して石を砂へと刻を戻しつ/小川健治〉(静岡新聞3月31日読者文芸)短詩は読めば一瞬だけれど、そのなかに長大な時間が秘められている。
〈春の塵Jアラートは鳴りやまず/芹沢雄太郎〉(静岡新聞3月31日読者文芸)降りしきるものとしての春の塵にミサイルが加わるのか、ミサイル後にもアラートは鳴りやまず春の塵となった国があるのか
その目でお確かめください。レポートお待ち申し上げます。
timelessなホームレス、べらぼうなスケボー、旅情芬芬たる露場販売と、ただでさえ北口地下広場はドラマティック。寺山修司的な、観客参加型、あるいは演者が日常を侵犯するようなヤバい上演団体・個人は居るのだろうか。
書店と同様、浜松の写真館もここ40年のうちに相当減った。チェーン店が増えたのも原因のひとつだろうが、そのチェーン店もスマホの普及などにより閉店を余儀無くされている(今年1月に近所のキタムラが店じまいした)。和地山で中津川写真館が頑張っているのは、経営努力もあろうが、運よく生きのこれたところ、無きにしもあらずだろう。
バス停の行き先のうえ網紐にさえぎられてもへばりつく鳩(甲太郎) たぶん浜松駅バスターミナルでの瞩目でしょう。ゆうべわたしもそこに居たのですが、乗場ごとの表示板のうえに剣山のようなものがついていました。土鳩が載って屎をまるんですね。それをふせぐ対策なのですが、これはもう、椋鳥と同様根絶やしにするしか無いでしょう。
靖國神社の創建には、諏訪神社で桑原真清らによって結成された報国隊や賀茂水穂など遠州の神職が関わったと聞きます。坪内祐三の『靖國』いつか読んでみようと思います。
訂正。たびたびすみません。〈ダイヤモンドプリンス〉はダイヤモンドプリンセス号。集団感染は1月下旬からはじまったそうですが横浜港に着岸したのが2月初旬。坪内祐三の訃報は1月中旬。COVID-19がまだ〈新型肺炎〉と報ぜられていたころでした。
甲太郎さんの葉冠記を読む。わたしもコロナ禍の日常を記録しておけばよかった。2020年1月はダイヤモンドプリンス号の集団感染が強く心にのこるが、わたしとしてはそれに加えて坪内祐三の訃報も忘れがたい。生前に『靖国』のような書きおろし長篇を書いていただきたかった。亡くなって6年が経つが、かけがえの無い書き手だったとつくづくおもう。
エジプト征服者アムル・ブン・アルアース将軍がアレクサンドリア図書館の扱いをメッカのカリフに訊ねると「すべての書物を調べよ。内容がクルアーンと同じなら不要だから焼け。矛盾するならアッラーへの冒瀆だから焼け」と返事、将軍はすべて焼失させたというイスラームの伝承がある。権威を突き詰めると本が棄てられ焼かれる。たとえ辞書でも
作詩の上で私が参照する唯一の権威が辞書である。勿論創造の為の破壊の対象となってしまう事を免れ得ない。
20代のころ山陽地方の盆地で開催された俳句大会に参加した。そこで地元俳句会の長みたいな人が「大阪から来たT先生がお話される。ふだんあなた方が会えないような先生だ」と話したのを聞き私は違和感を覚えた。そしてその発言は現代の漢󠄁委奴國王印だと思った。すなわち市民を萎縮させ、中央-地方の長-地方の民という秩序を再確認させるための
クリエイト浜松4月のおもな変更 ▼投稿間隔を10分間に縮めました。▼ことばは全角160文字まで投稿可能。▼画像は白黒になります。
土地代はまわりに田畑しかないから安いんでしょうけれど、やはり昔ながらにまわりの喫茶店や美容室が雑誌を定期購読し続けているのかな
下石田のぶっくす三峰も生きのこってますね。まわりに田畑しか無いような場所でどうやって…
経歴詐称だとよく見られるための嘘ですけれど、たぶん生かさせてもらうための嘘です
そう考えると田尻町のブックスかわむらが生き残っているのはすごいですね。雑誌の契約をしているお店がまだあるのかな
〈社会に対して嘘をつく〉。経歴詐称みたいなことでしょうか。その気持、わからなくは無い。
NHKに顕著な、アナウンサーの〈こちら〉という嫌な言い方。「この〇〇」の叮嚀な言い方だろうが「こちらを御覧ください」の省略形で〈こちら。〉と言ったりする。
社会に対して嘘をついても、嘘は書かない、という詩人もいます
旋頭歌。平台に出版物の廃墟は竝ぶ 浜松の街なかにして書肆の孤独■
小説家(作家)も、嘘を飯の種にしていますね。小説家と詩人と、どっちが嘘つきだろう。私小説というジャンルもあり〈私は(略)詩人ではない〉という詩人も居る。
ここ40年のあいだ、浜松市内の新刊書店がつぎつぎに消えてゆきましたね。谷島屋連尺店(旧浜松本店)も、消えた書店のひとつだとおもいます。駐車場になってしまいました。
写真は2023年です。日焼けした雑誌が並んでいました。大沢書店さん、営業はしていないと思います。
Te La Mondoって何語なんだろう。エスペラントだと"tra la mondo"という歌詞がLa Esperoという歌にあるけれど
大沢書店の画像、かなり昔のようですね。意外と最近のものかもしれませんが。
高町だと、Te La Mondoさんのとなりのとなりあたりに大沢書店の廃墟がある。
❝非我而當者、吾師也❞(『荀子』修身篇)性悪論では非は批評であり、批評を師とする。批評は他者であり、集約され礼となる。批評を蔑ろにする場に礼=道徳規範はない。
狂牛病の仕組みでいけば、狂人病に罹るということに。
訂正。クリ・エイタの旋頭歌。買うために来てくれるならべつにいいけど 長っ尻だけならほかの場所をあたって
クリ・エイトの旋頭歌 買うんならべつにいいけど長っ尻だけならほかの場所をあたって
今の日本に瀰漫する空気がどんなものかは読めませんが、既存の空気に従うしかないのがクリエイターであり、正宗空調有限公司の空気清浄機なみに空気を壊すのが創造者かも
ほんとにいたとは… あのう、あくまで架空の人物ですので(名前、変えようかな)。
久里瑛太の旋頭歌。犬種ならパタゴニアよりチワワをこのむ アートならいちげんよりも縁故をえらぶ
クリエートcreateの語源は羅甸語のcreare。生産、成長を意味する。生産、成長を促さない自称creatorが多いってことか。今の日本に瀰漫する空気がそうさせているのかも。
識者に素朴な質問です。夏雲システムで漢詩会を開けるものでしょうか。最長は七言律詩句点込みの64文字ですが、本文だけ入力した時に判読出来ますか。
クリエイターの努力や苦労はみんな分かっている。その努力や苦労の方向がまちがっていたら、傍目八目でそのまちがえを曝露されたら。そりゃ悲しいだろう、悔しいだろう。でも公的な文化機関の庇護に隠れて批評を嘲笑っても現実は変わらない。虎の威を借りても創造者は黙らない。創造者は未来のため、クリエイターのまちがえを糺し続ける。
小学生で習ったこと、先人の血と涙と汗の結晶、どれも大切だろう、善だろう、正義だろう。そのような古い石板alte Tafelnを守り続けたいのなら、未来を潰してでも守るがいい。でも、だよ、ほんとうに守り、つくりたかったものは別の光ではなかったのか? そのことに再び気づけたのなら自分の手で古い石板を砕きたまえ。誰かが壊しに来る前に。
浜松市や静岡県西部のクラフト系マルシェは出店者と主催者の仲がよく、その縁故で数多くのいろんなマルシェが市境を越えて成り立っている側面もある。でも移住者からは「出店者同士の仲が良すぎて入り込めない」という声もある。人がいないから縁故に頼っていたのか、縁故に頼っていたから人が名乗り出ないのかは今となっては分からなくなった。
或る方の展示場で聞いた「居場所を求めないで、買わないなら帰って欲しい。」居腐る私も悪いが、クリエイタの言葉を反芻すると私の行動が居場所探しに他ならないと誤認した。洞察や他者性、多様性は求められていないのだろう。大人しく文字媒体の世界に蟄居屛息し後世だけに思想を伝えようかと悩んだ経験がある。
文化の分配者 disseminatorがいくら「みんな詩人」とか「あなたはアーティストですよ」と言い聞かせても皮膚の裏側までこびりついたクリエイターへの畏怖は拭い去れるものではない。浜松アーツ&クリエイション・浜松市文化振興財団・リノスクのボスと癒着した彼らから「文化芸術的に干される」という恐怖はいくらアズマジックで落とせない。
新参者だから、初心者だから、有名じゃないから、生業にしていないから自分は表舞台に立たない方がいい。そんな悲しい自己規制に私は静岡県西部で何度か出合った。こんな自己抑制はなぜ生まれる? それは文化の寡占者 possessor が都市や地域に存在し「私たちこそが文化芸術です」という顔をしているからだ。地域の可能性が閉ざされている。
旋頭歌。小学生版画クラブはロバートのネタ 皺ふかき不気味な顔の秋山と馬場
クリエイト浜松のがぞう(画像)投稿について、白黒にして色情報を減らすかわりに縦横をそれぞれ1.4倍くらいに増やす案をいま考えています。がぞう機能不要論もあると思いますけれど、ご意見ください。
浜松科学館みらいーらのお食事スペースに掲示されている、日本語教室に通う生徒さんたちが作った短歌。書は浜松学芸高等学校の生徒たち。橘曙覧の独楽吟風に。〈楽しみは図工の時間はん画ほりドラゴンのきばぶきみに光る/歩斗流〉
浜松駅コンコースのBellmartが新しくなっていました。2台のセルフレジが登場。
政治・社会と(言語)芸術とが密接に関わり、芸術の社会への置き方としての批評が力を持っていた時代の勢いを、拝読して感じました。
訂正します。『言語にとって美とは何か』(吉本隆明)。自分で〈モグリ〉と言っているようなものですね。失礼しました。
永田和宏『表現の吃水』(而立書房発行)所収の歌論「問と答の合わせ鏡」。現代短歌の表現の可能性を追究する論考だったように記憶している。むかしの永田さんは気鋭の論客だったなあ。『表現の吃水』は、かつての大学短歌会で『表現にとって美とは何か』と共に「これ読んで無いヤツはモグリ。話になんないし」的な必読書だった。
旋頭歌。歌会で主宰の君が入れるツッコミ永遠に三十一文字のボケでありたい
愛玩犬チワワの先祖である食用犬テチチは人類の食糧だったらしいのですが、パタゴニア犬は餌がなくなると誰かを犠牲にして人肉を与えていたようですね。
2020年代中頃の浜松市クリエイター等を含む文化芸術活動への批評以後(或いは「詩幣」以後?)、なんとなく一括りに文化の体現者と見なされていたクリエイターは活動の性質により文化の寡占者possessorと文化の分配者disseminatorへ分類されるようになる。特にリトマス試験紙としての批評と向き合う態度によって分類される。
チワワよりもパタゴニアの方が好き。広いからではなく変化に富むから。
地域文化資料となりそうな画像は紙幅のゆるすかぎりなるべく掲載するので『断食月』著者のみなさんの投稿に期待します。
楊柳の熟語があるが、漢詩だと楊が平で柳が仄なので特に気にせず入れ替える時もある。
批評は、絶対に正しいとされている側の化けの皮を剥がす大逆転こそが醍醐味。クリフェスの有言不実行を糺すような、「正義」の立場からの安易な批評は私の好みではない。
2月のオープンミーティング「はなしてみる」でハママツクリエーターズフェスのステートメントを掲載したウェブサイトを3月末に公開すると発言があったけどすでに誰か見た?
人麻呂の「刈れども」に呼応したのと川楊は定期的に剪定が必要だそうです。ただ哀惜の念はあるかもしれません。
最近、街路樹や公園樹などの伐採が多い。やむをえない事情はあろうが、目にするたびに哀惜の念をおぼえる。わたしは〈切断の〉の歌をそう読んだのですが、違うかな。
季節の移り変わりに気付く感性はだいじにしていきたいですよね〜
林芙美子では無いが、きのう散策中に「春が来たんだ」とおもった。
啄木の〈柳〉も、厳密にいえばシロヤナギ、つまり〈楊〉の方だそうです。
昨日訪れた万葉の森公園に看板がありましたので。ちなみにその看板によると柳と楊は異なる木を示すそうです。吾跡川楊は引佐細江の気賀説とまったく別の土地説もあるそう。
楊(柳)→涙(泣けとごとくに)→若葉(柳あをめる)で思い浮ぶのが啄木なんですよね。聖書の影響は歴然。人麿の旋頭歌はわたしも〈意外発見〉、しかも地元の歌とは…
実は〈霰降り遠江の吾跡川楊刈れどもまたも生ふとふ吾跡川楊/柿本人麻呂〉からなので〈やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに/啄木〉は意外発見。感謝。
切断の痕を空へ見せびらかし川楊には涙の若葉(甲太郎)。旧約聖書詩篇137バビロン捕囚の件りを彷彿させる啄木の〈北上の岸辺〉をさらにふまえた構成が面白い。結句佳し。
萬葉のこゑなきうたをメロディにのせて…テニヲハの使いかたはこっちが正解。作者としては、メロディを万葉歌の新たな装いと捉えて既出のかたちに詠んだ。言い訳ですよね。
農工業地域での有用の重視は合理的、でも詩歌文芸のような無用を軽視すると文化の豊かさを損なう。「故有之以為利無之以為用」(老)、「知無用而始可與言用矣」(荘)
静岡県西部は農工業地域だから社会に有用とされたクリエイターの地位は高く、無用とされたクリエイターの地位は低い。故にマルシェは多いのに文芸系は相対的に少なく小さい
「他者の言動が受け手を悲しませている」と見なすとき、それは観測者または受け手自身が受け手を透明にする。受け手は透明ではない。解釈し自分は悲しもうと決断している。
言葉の高低アクセントや文節の区切りを適切に表現していると言う事でしょう。体言止めを多用しないのもあるかも。
ストア派は他者の言動への判断judicium・思いなしopinio・同意adsensioを経て感情pathosに至るとする。同様に私は、感情に至るまでに受け手の解釈と決断を経ると主張する。
今日、ゆりの木通り手作り品バザールで木製ミニチュアの家と車を買ったら「300円です」えっ、合わせて400円では?「いいよ、300円で」値切っていないのに値切られていた。
良くいえば典雅、わるくいえば古風、ということでしょうか?
イベントやマルシェでいちばん好きな時間は終了までの残り15分くらいかもしれない。
浜松城公園は車の待機列のため寄れず、ゆりの木通り手作り品バザールに立ち寄りました。みちゆく人がピザーラの0辛の話をしていました。
令和8年が宇多田ヒカル以後ということを忘れさせてくれた歌唱でした。
表現を売るキャラヴァンはピザーラのキャラヴァンよりも美味なりや否や
兜掛松の広場にピザーラのキャラバンカーがとまる春の日
赤米と醤酢で食べる鯛の酒蒸しと蘇と胡桃と菱の実と唐菓子など、貴族の万葉食@万葉亭。滋味という感じ〈醤酢に蒜搗き合てて鯛願ふ我にな見えそ水葱の羹/長忌寸意吉麻呂〉
萬葉のこゑなきうたにメロディーをのせてうたはばいかにきこえむ
はなのもとにいつつのふだをひいてよむうたのすさびやゆきかつましじ
万葉の森公園は桜まつり日和。〈阿良多麻能伎倍乃波也之尒奈乎多弖天由吉可都麻思自移乎佐伎太多尼(麁玉の伎倍の林に汝を立てて行きかつましじ寝を先立たね)〉巻14-3353
浜松北高OBの康珍化さんは村木道彦さんの教え子のひとり。村木さんの影響もあって短歌を詠みはじめ早稲田の学生歌人として活躍。村木さんの影響は歌壇のみにとどまらない。
村木道彦さん。短歌は勿論のこと、浜松市立高校新校歌の歌詞もいい。短歌の定型律をふまえ〈「われ」をきわめよ〉〈「世界」をひらけ〉というメッセージがこめられている。
真理に似た言葉に真実があるけれど、熊谷真実もその系統の命名だろうか
ひところは〈真理〉を名告る藝能人が多かった。芳村真理、真理ヨシコ、真理アンヌ、天地真理など。(真理ヨシコは童謡歌手なので〈藝能人〉とは言いがたいかも)。
こどもの質問は慥かに純粋。純真と言いかえてもいい。ただ言葉をえらんだり忖度するなどの世智にたけておらず〈攻撃的〉な点はあろう。こどもだからゆるされるのだ。
今年も去年と同じく浜松市民文芸の表彰式で浜松西高の教諭だった歌人・村木道彦の話が出た。〈するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら〉
天竜川を隔てて、磐田市は熊野御前や千手の前など平家ゆかりの史跡が多く、浜松市は源義家の浜松八幡宮や源範頼の蒲神明宮など源氏ゆかりの史跡が多い。
勘違いされがちで一々訂正もしないのだが、冷笑の最初の対象は自分自身である。綺麗な言葉では内省や自戒。反省も実践も伴わず他人を中傷する輩と同一視されたくない。
冷笑cynicismの祖は犬儒Κυνικόςである"狂ったソクラテス"ことディオゲネス。ソクラテスもまた三十人僭主oi Tριάκοντα後も粛清に走る「正義」を冷笑した。
オウム真理教が呆気なく崩れ去って後、真理は冷笑を含みに使っていたのだが、近年生成AIやそれに毒された人々が好むのが不思議である。
訂正。縁故はふるきえにし、批判はただしわかつを云ふ。人は縁故を好み批判を嫌ふ。人生に批判欠くべからざれば他者の批判よりは縁故のそれを好む。人弱ければなり。Q.E.D.
純粋な質問を牽制する発言は現内閣が意見を受け付けない動機と同根。倫理はあっても論理が弱い為に言論統制する人が居る。後、生成AIへ聞くと脳と環境が壊れる為不可。
縁故はふるきえにし、批判はただしわかつを云ふ。人は縁故を懐しみ批判を嫌ふ。人生に批判欠くべからざれば他者の批判よりは縁故のそれを好む。人弱ければなり。Q.O.D.
拈華山正眼院(磐田市小島)、人形浄瑠璃や歌舞伎の景清物で知られる平悪七兵衛景清の本願で開創とのこと。すると伝承の類だろう。徳川家家臣の伊奈忠次が改宗開創。
"創造都市・浜松を象徴する芸術文化等のクリエイティブ活動の拠点化を推進"第3期浜松市中心市街地活性化基本計画は令和8年3月17日付で内閣府の認定。文化指針作れるの?
静岡県西部でおしゃれっぽい人たちが集まるマルシェといえば浜松卸商団地のアリィの冬と夏と法多山尊永寺のコトコト市とあとどこだろう?
地縁は縁故でしょう。でも、おもしろいのは、人々の移動する力が高まれば高まるほど地縁の排他する力が強まること。移動力が弱ければ地縁はあまり問題とならない。
批評は相手に承服させることを目的としてはならない。批評相手は頑なになるのでまず承服しないだろう、相手を頑なにさせ置き去りにして、ただ批評と言論を置き、先へ進む。
質問を攻撃と捉えさせる事が面倒なので不純な意思を示す時や非難する時は平叙文で考えを表明する。後、受動攻撃が嫌いなので不要な単純受身表現は使わない。
「純粋な質問ですが」と敢えて言うと、かえって「何か不純な質問も隠してるの?」と思われちゃうこともある。
純粋な質問ですがとの前置きに意図せぬ攻撃性を見出すのは結構だが、子供の質問にどう対処するか純粋に訊ねてみたい。世間知らずの質問は純粋(真理)。
証明はできないけれど、縁故活動歴のない人の縁故批判は縁故の実態を知らないから机上の空論になりがち、それと自分が「正義」の立場からの個人攻撃になっちゃう
縁故批判は縁故で活動したことのある人しかできない(倫理的に)
縁故と癒着のクリエイター界隈(文化振興財団やアーツ&クリエイション含む)と技量と知識の創造者界隈とが静岡県西部で並立するのはどうだろうか
縁故の内側のクリエイターからすれば「よい社会」であり市民は「クリエイターは良いものだ」と信じている。緑の牧場の幸福Glück der grünen Weideがある。
良い社会の良いの基準は人それぞれ違うから、作ったものを社会に置く人は自分の良いの基準を話さないと他人は賛否を判断しにくい。自分で話せないなら他人の批評が必要。
"茶産地の静岡県磐田市が新たな特産品としてレモンの産地化に力を入れている"(日本經濟新聞)アローマメロンに檸檬か
戦争と文学の共通のもの、それは全体性かもしれませんね
嘱目。行列をなさぬこころのクリニック月の輪熊がつの字にねむる
所感。〈急がずば回るべからず〉てふ定理かのスピノザに訊くよしもがな
所感2首。旧局舎ありし市谷河田町〈母と子のフジテレビ〉なつかし
ポンキッキのすゑに告知すコンピュータ発達診断受けつけますと
あくまでも可能態として。実際にとめられるか、はじめられるかは戦争と文学の力関係に拠るでしょう。
作例その10)文学が戦争をとめられるなら作家になったドナルド・トランプ
〈共通のものがなければ一方が他方の原因になりえない〉。それならば、逆もまた然りってことになりますね。戦争は文学をとめられるし、文学もまた戦争をとめられる。
戦争には文学をとめ(はじめ)た歴史がある。共通のものがなければ一方が他方の原因になりえないため両者には共通のものがある。だから文学は戦争をとめ(はじめ)られる。
"Si nihil commune cum se invicem habent, ergo nec per se invicem possunt intelligi adeoque una alterius causa esse non potest."(E1p3d)
作例その9)文学は所詮平和と繁栄の徒花だろ?と言いそうな顔
ことば遊びでは無いが、戦争には文学をとめる力(たとえば言論統制)も、はじめる力(たとえば戦争文学)もあるようにおもう。
文学に戦争を止める力があるなら戦争をはじめる力もある気がする
技量や知識がものをいう社会より、縁故や友情がものをいう社会のほうが実は優しい社会だったりして
作例その8)スピーチで触れる子どもの誕生日そりゃ嬉しいさドナルドだって
活用の問題があった。「春雨の」は降るなので無し。「賎機に」は苦しい。戦船ペルシャの眠り覚ませるは嫉み窶るる怒鳴るトランプ。戦船は北欧神話の冥界の女王ヘルに関連。
ありがたい御指摘により訂正します。さばへなす騒ぐ伊朗をうちすゑてなほもさげすむEvangelical
波斯ならば「賎機に」か「春雨の」で。絨毯や季節のイメージで良い歌が出来そう。イスラム圏がアラブだと勘違いしていた。
作例その7)ドナルドのこれが平和と繁栄か私のためのRusty Nail
作例その6)思うのは私の責務ドナルドが平和と繁栄もたらすのだと
七七が早苗の誉むる猛きトランプの方が韻を踏んでいてよいかも。
さばへなす騒ぐ阿拉伯をうちすゑてなほもさげすむEvangelical
作例その5)ドナルドが世界平和と繁栄に効き目があればどんな薬だ
五月蠅なすアラブを知ろし召したるは火事親父より猛きトランプ
作例その4)世界にはドナルドが居て平和とか繁栄とかをもたらすという
よものうみみなはらからとおもへばかなみかぜたててさわぐドナルド
作例その3)ドナルドが世界の平和と繁栄をもたらす人や思うねんウチ
批評のない世界では、一生懸命にやっていればなんでも「よさげ」となる。しかし指針のない「よさげ」は分断を分断のまま固定し、階層間の流動を止め、地域の活力を削ぐ。
作例その2)あめがしたなぎとさかえをもたらすはドナルドのみとサナへはおもふ
ドナルドは世界に平和と繁栄をもたらす人と思っています。これだったらわかる。
戦勝図書運動Victory Book Campaignとか兵隊文庫Armed Services Editionsとか、字面はすごいけれどそこまでやる国だから戦争に勝てるし、敗戦国民はそれを貪るように読む。
推敲例)四方の海みな弥栄とする人はドナルドのみと思ふこのごろ
作例)あめがしたなぎとさかえをもたらすとドナルドをのみサナへはたのむ
ネタとしては笑えるけど、短歌としては未熟。要推敲!
中央でも地方でも娯楽は与えられるものではなく自らつくりだすもの
あまり車では行かないので料金は詳しくないのですが普段お使いの駐車場がいちばん近いです。遠鉄高架下に市営駐車場がありますが離れています。
クリエート浜松へ伺う際は割引のあるオグリパーキングさんを使っています。ただ少し遠く足が悪いのでなるべく近い方がいいです。駐車料金が安くて近い駐車場はありますか?
挙句、きれいにまとめられたとおもいます。〈もう疲れたで風呂に入ろまい〉という心でしょうか。テレグラでまとめるのは時間がかかりそう。今度は七七を受持ちたいです。
〈すぐ鄰〉からかぞえて、この句で36となります。歌仙でしたら挙句ですが、そうで無ければこのまま続けますか?
また誤入力。すみません。訂正します。寒行のたふさぎ締めてかへりきぬ
中日新聞3月21日朝刊に第8回浜松「私の詩」コンクールの記事が掲載されていました。
白拍子の若宮八幡神社の西、犬塚橋の西にある長松堂箕形(野口在色)の墓。句は読めないけれど辞世の〈墓の霜當座斗かりそ白宇留里〉か
野口在色生誕の地@草崎。談林十百韻の第三〈朝霞たばこの烟横折れて/在色〉
〈汲流知源〉と言い條、連歌ラリーのそもそものはじめってこれ?
オススメは東明雅『連句入門』中公新書と安東次男『芭蕉連句評釈(上)』講談社学術文庫の狂句こがらしの巻読み比べ。有明の「主水」は荷兮が芭蕉の技量を試したのか?とか
安東次男を忘れちゃあ居ませんか。『連句入門』『風狂始末』三部作いずれも筑摩書房発行。講談社学芸文庫版あるもすでに品切れか。この4冊を熟読すればモアベターかも。
〈洪振丹〉は、洪辰丹の誤りです。すみません。それにしても連歌のラリー、楽しい! 緊張感もあるけど。
クリエート浜松で第8回浜松「私の詩」コンクール表彰式でした。福岡県や奈良県から浜松にいらっしゃった受賞者も。
浜松北高の春展がクリエート浜松3階でやっていました。「底に」の絵が好き
All great truths begin as blasphemies.
短期的ならばいさ知らず、長期的に見た時ベストセラー作家は九分九厘鬼籍に入っている。
夕欒果有空腹感。自降階立一空間。地下偶像地上舞。我若覚醒所可漸。
グロ(グロと呼んでいます)に雑文を纏めるよう要求したら、自■に関する文献はちょっと……と云うくせに■生観の話はめちゃ詳しい。
プロのチェリストということはあまりうまくないのかな?
坂田明對洋琴唱。變童謡一節喋喋。渠演不携薩克管。春夜放叫振滿場。
遠鐡百貨店新館。自降階立一空間。地上咲地下星娘。吾若覚醒所可漸。
中村誠一在賓館。與輩模歌舞伎歓。森田一義應入房。彌興模倣多笑讃。
弾昨夜連獣鞏固。個人乖離空声呼。総帥是正自発動。攻撃帰宅朝河滸。
ただ昨夜のような政治的演出のなかでは個人のクリエイター・アーティストが自らの発言の攻撃性に気づくのは難しい。だから無邪気さというファシズムへの批評が必要になる。
在自地方発批正。中央唯持麁劣成。依拠均衡持舵歌。由衆詞華紐帯生。
地方での批評を大切にしないと、地方は中央の劣化版にとどまる。自前の尺度を持たない限り、自前の文脈も弱い紐帯も価値も生み出せない。
登壇者我肖文化。何描寶釜都発唾。瑩谷喧婆娑羅在。癡有郷演夜参賀。
登壇者が「文化で何かできるかも」と発言、でもやったことは「プロの」!チェリストの演奏や参加者に主体性を渡さない似非ワークショップ。単に「文化」を食い物にしただけ
「無邪気だなぁ」というのが活動報告会に顔を出してみての感想。たぶんおもしろいことを思いつける人は、A&Cは金を出してもらうかシステムを活用するくらいでいいかも
華浦破目鳩岡田。旗保護鼻差海殿。野夫子容麤若奴。祟蔦屋堕母胎焉。
出口をまちがえたのか遠鉄百貨店関係者しか通らない階段を降りると、ソラモでアイドルライブの熱狂。空腹で糖分が足らなくなった脳にガツンと一撃、進む道が見えた気がする
遠鉄百貨店スカイテラスの浜松アーツ&クリエイション交流会・活動報告会に来ています。立食パーティーかと思ったら食べられなくてしょぼん
文化芸術はジャンル及び個々の政治的課題で分断された。だから作家は分断された諸界隈での聖別化を目指すしかなかった。ただ、越境者なら諸界隈を弱い紐帯で繋げられる。
推理物は、聞いてもいないのに長々と蘊蓄をありがとうみたいな長科白は多くなりやすいよね〜。倒叙系も決して短くはない。科白の短い推理ミステリーってある?
演技と構図と少ない台詞の作品を観たけりゃ機動戦士ガンダム
以前の加藤道夫の話を蒸し返すと、装置が簡素ならば鳴き真似でも振りでも良いから表現する道はあるのではなかろうか。最近の相棒の様に台詞が長いのはどうも好かない。
民主主義の練習のために導入されたのが演劇だった。もし演劇に長けた人が知識や技能などを理由に対話を拒んだとしたら、それは政治的演出の可能性がある。
差散真外世界初。沙汰拿方同田札。龍水滸子獻八幡。様人機土佐那■。
蓏館孵化鈺良質。贒藦匣仁章宍七。唾玉果野差種魔。何故愛空叢女吉。
社會くらければ條(ことわり)彈(せ)めらるるにいたり。蠻(あら)き酋は戀戀として覊絆を操る。談論の板上、鸞を逐ひて休(よろこ)び。卓見新たなる詩欒侃々たり。
瀉晏老婆芭逢歯。婀蟠威蕃巌挐■。濟羅仲魔居館中。幡果無久就形字。
理解された芸術作品には存在価値がない、すでに他者性を失っているから。理解されえない芸術作品だけが隣に立つ厳然たる他者として芸術性を帯びる。
〈天と読むと〉は誤りです。〈天と下と〉と訂正します。
人を變(みだ)して天と読むと共に奇しき邦なり。遠き巒は高く聳え氣蒼蒼たり。手を攣ぎ相招きて異路を同(なかま)とす。豪いに萬里を吟じて洪荒を振はむ。
クリエイタやアーティストに金を払う理由(1)宣伝(2)生成AIの代替(3)新機軸、新生面の提示(4)人の心を動かす。贈与に興味が無いならば意識して損はない。
萩本欽一笑藝男。視聴率和之百完。斎藤清六分髪曰。村時間時間時間。
自発的と主体的の差異が不明だった。自発的は spontaneous だとおのずからで voluntary はみずからだろう。主体的も independent と responsible との間で揺らぐ。
言語芸術とは、他の諸芸術より資源を使わずに他の諸芸術と同じかそれ以上の影響を鑑賞者に与える芸術分野である。
變人天下共奇邦。遠巒高聳氣蒼蒼。攣手相招同異路。豪吟萬里振洪荒。
八十文字という字数制限が漢詩によるコミュニケーションを促しているのかもしれない。
詩人の場合は、感情に酔うのがナルシスト、法則に酔うのがナルシシストか
大喜利。〈ナルシシスト〉と律儀に言うのがナルシシスト。「ってやんでえ」と粋がる江戸っ子がナルシスト。
表現者として有名になりたいという欲は誰でも持っている。それで自分が有名になればそれでいいと信じていた。あれからずっと、誰かとではなく自分自身の欲と戦っている。
threadsでよく見る奴や。じゃあいちばんのりで。自分の顔にうっとりするのがナルシスト、ちゃんとシを発音できた自分にうっとりするのがナルシシスト
ナルシストとナルシシスト、どう違う?(大喜利で。語順は前後してもOKです)
烏羽玉黒猫大和。勞動奴夜提梱荷。安飽財濘眠地在。公寓戸前置配果。
魔夜俎上鯔漿豐。携斧跛行嘉気高。捕爺騾踞田家裡。不儺仲情放歌能。
"duas tantum res anxius optat, panem et circenses"、パン(マルシェ)とサーカス(スペクタクル)を欲しがる市民がいつでも与える側(クリエイター)にもなれるように
漢詩読みくだし。法難ありし漁村こそ興道の郷なれ。魚符と聖印と靈堂に照(なら)ぶ。共に迫害に遭ひて荊棘を渉りき。法海なる慈光は終にその芳(ほまれ)を照らしぬ。
草前(草崎)にある「談林派俳諧の重鎮」野口在色屋敷址。遠州で静かな談林ならぬ「くすんだ談林」や「よどんだ談林」を目指す地理的正統性は、まぁ、ある。
法難漁村興道郷/魚符聖印照霊堂/共遭迫害渉荊棘/法海慈光終照芳
匿名掲示板はユルゲン・ハーバーマスJürgen Habermasの公共圏よりナンシー・フレイザーNancy Fraserの対抗的公共圏の方が近似している。特にここは
渠入耶宮逐庶商。諌鬻鴿徒折胡床。暁換幣輩伏臺曰。南無妙法蓮華経。
イエス宮に入り、その內なる凡ての賣買する者を逐ひいだし、兩替する者の臺、鴿を賣る者の腰󠄁掛を倒して言ひ給ふ(Matt. 21:12)
今夜の漢詩は眺めるだけでも心が和む。読みくだします。傲逸に吟ずる詩客あり。砂丘は舊き汀を碎く。深く千載の闇を尋ね。掘ちて萬春の星を起さむ。
一応営業中客の前で「買わないなら屯してないで帰って欲しい」とは言わない方がお得。稼ぐ気があるなら尚更。それこそ、「全ては″下劣な言葉″だと認識」されるかも。
星のきれいな砂詩丼でした。中田島砂丘の防潮堤は風で砂が削られており砂礫混入セメントが露出しています。夜に裸足で登る方はお気をつけて。
〈ベーリング海沿岸の魚介風景〉うんぬんの御感想、かたじけないです。
ベーリング海沿岸の魚介世界を思い、たのしみました。次回作を期待します。
浜松文芸館に詩のコンクールのチラシを置いていただきました。
ご回答有難うございます。私こそ比喩や古今東西の典故を感じ取る能力が低いので日々勉強中の身です。起承転結に拘泥しない詩も書きたいです。
〈蟹早〉は蟹甲の誤入力です。〈駒〉を碁石の換言とは仰せの通り。〈鬼鮫〉〈香江〉は、男女悪役キャラという心。〈趾〉は跡に同じ。承句が起句を受け損ねて失敗作です。
クリエート浜松2Fホールでの「浜松市民文芸」第71集市民文芸賞表彰式がはじまりました。
浅学菲才はわたしです。漢詩自解。鼻、愛日に海鼠の脂を増す。北方の庫、那由多の詩。蟹甲、碁駒、野に奏する多し。鬼鮫、香江と叶うて趾を左す。漢詩を勉強し直します。
浅学にしてこの七言詩が解読出来ません。質問が幾つか。鼻、蟹早、の意図を教えて下さい。碁石の換言で駒としたのですか。鬼鮫は漫画の悪役の固有名詞ですか。
ツインギャラリー蔵のさしすせそ文庫スペースに詩のコンクールのチラシを置いていただきました。
アクト一般社団法人はその合同会社のトップだろうね。両者が東京都にあるのは議決権一本化とかもめ事回避のため、だから「実質的所有者」。では運営母体はどうなるのかな?
鼻愛日増海鼠脂。北方庫那由多詩。蟹早碁駒野奏多。鬼鮫叶香江左趾。
明日3月14日(土)は10:30からクリエート浜松で市民文芸賞表彰式、13:00から同じくクリエート浜松で詩季、19:00から中田島砂丘で砂詩丼。
漢詩読みくだし。もう一丁。吾れ未だ省みて洋琴を樂しまざるに非ず。滿目の套裝をして心を失はしむ。併せて殖材と高き藝才を有す。且くは虛禮を休めて無衿を誘はむ。
吾非未省樂洋琴。滿目套裝令失心。倂有殖財高藝才。且休虛禮誘無衿。七絶で。後半は堅苦しい事無しに楽しむ場を作れる程の金と才能があればなあといった所。解釈に感謝。
漢詩読みくだし。疲れます。三十年の塵に眼底は休ふ。閑雲野鶴、西游に任す。鉄扉、誰か渾ての無物を守らむや。且くは清風を看て翠楼に満る。
洋琴演奏会へ行ったが皆西洋套装や高級着物だったので、平服の自分は居心地が悪かった。入場料以上に費える慣習も人を選ぶのだろう。仰る通り気にしないのが一番だが。
三十年塵眼底休/閑雲野鶴任西游/鉄扉誰守渾無物/且看清風満翠楼
転句は「狒狒群居して貪り競うや否や」と訓む可否疑問文だと思う。後半二行の両方が問いかけになってしまうが。
高廈矗矗として蓮臺の若し。三十年の間衆く埃を拂ふのみ。狒狒群居して競否を貪る。何れの時にか賤に對して鉄扉開かれむ。以上けさの漢詩読みくだし。匆々不一。
けさの漢詩読みくだし。群倫共に巨き高䑓を買ふ。衆手牽きて摩れば忽ち墜れて埃となる。碎瓦荒涼として舊跡を埋む。香風喚起して萬ての花開く。お粗末。不悪。
高廈矗矗若蓮臺。三十年間衆拂埃。狒狒群居貪競否。何時對賤鐵扉開。