むかしのことば
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断ることを覚えたい。或る公園運営に携わる人から「このイベントはあなたじゃないとダメだと思って」と言われたけれど、私だけができてもしかたない。まちの他の誰もができるようになってほしい、きっとできるはずだから。なので、イベントにたずさわるとき、いらっしゃる方をお客さまと思ったことはなくて「次の主催者が来た」と思っている。
オープンと銘打っているのにオープンさを演出する気がないのか
新しい浜松市美術館の構想を練るならまずひらかれたワークショップを何回か開いてそののち構想のコアメンバーを決めればいいのに、オープン・ミュージアム・ラボのコーディネーターとかメンバーをあらかじめ決めて出しちゃうのはやりかたとしておそまつ
連帯などの強制に閉鎖性を感じた人が提唱したのが弱い紐帯。てんでばらばらな方向を見ている群衆がなんとなくネットワークでなんとなくつながる気がする感じ
連帯や連携という単語に惑わされるけれど、強制は絶対にいや。
炎上させて話題にしたい人は批判される余地を残しておくというけれど、炎上商法まんまとひっかかってますね。むしろ連携を疑うくらいに
オープン・ミュージアム・ラボ、浜松市民を"部外者"扱いされた方が協力しているけれど、浜松市美術館に市民の意見を取り入れる気はあるのだろうか、すでに一部の人選がクリエイター・ファシズムとなっている。
ローカルコレクティブ「オープン・ミュージアム・ラボ」コーディネーター:桂川美帆/空閑美帆。メンバー:江川野智典/大杉晃弘/鈴木力哉/柳本茉希/藤江寛司。協力:天野寛志/大石晃裕/小田伊織/坂田吉祥/白坂隆之介/林満里奈/藤本紗由美/宮下ヨシヲ。クリエイター・ファシストの方もいるけれどちゃんと部外者の意見をとりこめる?
訂正。〈兜掛松〉は、鎧掛松のまちがいです。いまさら、すみません。
〈地衣類は墓の礎石に繁茂して石を砂へと刻を戻しつ/小川健治〉(静岡新聞3月31日読者文芸)短詩は読めば一瞬だけれど、そのなかに長大な時間が秘められている。
〈春の塵Jアラートは鳴りやまず/芹沢雄太郎〉(静岡新聞3月31日読者文芸)降りしきるものとしての春の塵にミサイルが加わるのか、ミサイル後にもアラートは鳴りやまず春の塵となった国があるのか
その目でお確かめください。レポートお待ち申し上げます。
timelessなホームレス、べらぼうなスケボー、旅情芬芬たる露場販売と、ただでさえ北口地下広場はドラマティック。寺山修司的な、観客参加型、あるいは演者が日常を侵犯するようなヤバい上演団体・個人は居るのだろうか。
書店と同様、浜松の写真館もここ40年のうちに相当減った。チェーン店が増えたのも原因のひとつだろうが、そのチェーン店もスマホの普及などにより閉店を余儀無くされている(今年1月に近所のキタムラが店じまいした)。和地山で中津川写真館が頑張っているのは、経営努力もあろうが、運よく生きのこれたところ、無きにしもあらずだろう。
バス停の行き先のうえ網紐にさえぎられてもへばりつく鳩(甲太郎) たぶん浜松駅バスターミナルでの瞩目でしょう。ゆうべわたしもそこに居たのですが、乗場ごとの表示板のうえに剣山のようなものがついていました。土鳩が載って屎をまるんですね。それをふせぐ対策なのですが、これはもう、椋鳥と同様根絶やしにするしか無いでしょう。
靖國神社の創建には、諏訪神社で桑原真清らによって結成された報国隊や賀茂水穂など遠州の神職が関わったと聞きます。坪内祐三の『靖國』いつか読んでみようと思います。
訂正。たびたびすみません。〈ダイヤモンドプリンス〉はダイヤモンドプリンセス号。集団感染は1月下旬からはじまったそうですが横浜港に着岸したのが2月初旬。坪内祐三の訃報は1月中旬。COVID-19がまだ〈新型肺炎〉と報ぜられていたころでした。
甲太郎さんの葉冠記を読む。わたしもコロナ禍の日常を記録しておけばよかった。2020年1月はダイヤモンドプリンス号の集団感染が強く心にのこるが、わたしとしてはそれに加えて坪内祐三の訃報も忘れがたい。生前に『靖国』のような書きおろし長篇を書いていただきたかった。亡くなって6年が経つが、かけがえの無い書き手だったとつくづくおもう。
エジプト征服者アムル・ブン・アルアース将軍がアレクサンドリア図書館の扱いをメッカのカリフに訊ねると「すべての書物を調べよ。内容がクルアーンと同じなら不要だから焼け。矛盾するならアッラーへの冒瀆だから焼け」と返事、将軍はすべて焼失させたというイスラームの伝承がある。権威を突き詰めると本が棄てられ焼かれる。たとえ辞書でも
作詩の上で私が参照する唯一の権威が辞書である。勿論創造の為の破壊の対象となってしまう事を免れ得ない。
20代のころ山陽地方の盆地で開催された俳句大会に参加した。そこで地元俳句会の長みたいな人が「大阪から来たT先生がお話される。ふだんあなた方が会えないような先生だ」と話したのを聞き私は違和感を覚えた。そしてその発言は現代の漢󠄁委奴國王印だと思った。すなわち市民を萎縮させ、中央-地方の長-地方の民という秩序を再確認させるための
クリエイト浜松4月のおもな変更 ▼投稿間隔を10分間に縮めました。▼ことばは全角160文字まで投稿可能。▼画像は白黒になります。
土地代はまわりに田畑しかないから安いんでしょうけれど、やはり昔ながらにまわりの喫茶店や美容室が雑誌を定期購読し続けているのかな
下石田のぶっくす三峰も生きのこってますね。まわりに田畑しか無いような場所でどうやって…
経歴詐称だとよく見られるための嘘ですけれど、たぶん生かさせてもらうための嘘です
そう考えると田尻町のブックスかわむらが生き残っているのはすごいですね。雑誌の契約をしているお店がまだあるのかな
〈社会に対して嘘をつく〉。経歴詐称みたいなことでしょうか。その気持、わからなくは無い。
NHKに顕著な、アナウンサーの〈こちら〉という嫌な言い方。「この〇〇」の叮嚀な言い方だろうが「こちらを御覧ください」の省略形で〈こちら。〉と言ったりする。
社会に対して嘘をついても、嘘は書かない、という詩人もいます
旋頭歌。平台に出版物の廃墟は竝ぶ 浜松の街なかにして書肆の孤独■
小説家(作家)も、嘘を飯の種にしていますね。小説家と詩人と、どっちが嘘つきだろう。私小説というジャンルもあり〈私は(略)詩人ではない〉という詩人も居る。
ここ40年のあいだ、浜松市内の新刊書店がつぎつぎに消えてゆきましたね。谷島屋連尺店(旧浜松本店)も、消えた書店のひとつだとおもいます。駐車場になってしまいました。
写真は2023年です。日焼けした雑誌が並んでいました。大沢書店さん、営業はしていないと思います。
Te La Mondoって何語なんだろう。エスペラントだと"tra la mondo"という歌詞がLa Esperoという歌にあるけれど
大沢書店の画像、かなり昔のようですね。意外と最近のものかもしれませんが。
高町だと、Te La Mondoさんのとなりのとなりあたりに大沢書店の廃墟がある。
❝非我而當者、吾師也❞(『荀子』修身篇)性悪論では非は批評であり、批評を師とする。批評は他者であり、集約され礼となる。批評を蔑ろにする場に礼=道徳規範はない。
狂牛病の仕組みでいけば、狂人病に罹るということに。
訂正。クリ・エイタの旋頭歌。買うために来てくれるならべつにいいけど 長っ尻だけならほかの場所をあたって
クリ・エイトの旋頭歌 買うんならべつにいいけど長っ尻だけならほかの場所をあたって
今の日本に瀰漫する空気がどんなものかは読めませんが、既存の空気に従うしかないのがクリエイターであり、正宗空調有限公司の空気清浄機なみに空気を壊すのが創造者かも
ほんとにいたとは… あのう、あくまで架空の人物ですので(名前、変えようかな)。
久里瑛太の旋頭歌。犬種ならパタゴニアよりチワワをこのむ アートならいちげんよりも縁故をえらぶ
クリエートcreateの語源は羅甸語のcreare。生産、成長を意味する。生産、成長を促さない自称creatorが多いってことか。今の日本に瀰漫する空気がそうさせているのかも。
識者に素朴な質問です。夏雲システムで漢詩会を開けるものでしょうか。最長は七言律詩句点込みの64文字ですが、本文だけ入力した時に判読出来ますか。
クリエイターの努力や苦労はみんな分かっている。その努力や苦労の方向がまちがっていたら、傍目八目でそのまちがえを曝露されたら。そりゃ悲しいだろう、悔しいだろう。でも公的な文化機関の庇護に隠れて批評を嘲笑っても現実は変わらない。虎の威を借りても創造者は黙らない。創造者は未来のため、クリエイターのまちがえを糺し続ける。
小学生で習ったこと、先人の血と涙と汗の結晶、どれも大切だろう、善だろう、正義だろう。そのような古い石板alte Tafelnを守り続けたいのなら、未来を潰してでも守るがいい。でも、だよ、ほんとうに守り、つくりたかったものは別の光ではなかったのか? そのことに再び気づけたのなら自分の手で古い石板を砕きたまえ。誰かが壊しに来る前に。
浜松市や静岡県西部のクラフト系マルシェは出店者と主催者の仲がよく、その縁故で数多くのいろんなマルシェが市境を越えて成り立っている側面もある。でも移住者からは「出店者同士の仲が良すぎて入り込めない」という声もある。人がいないから縁故に頼っていたのか、縁故に頼っていたから人が名乗り出ないのかは今となっては分からなくなった。
或る方の展示場で聞いた「居場所を求めないで、買わないなら帰って欲しい。」居腐る私も悪いが、クリエイタの言葉を反芻すると私の行動が居場所探しに他ならないと誤認した。洞察や他者性、多様性は求められていないのだろう。大人しく文字媒体の世界に蟄居屛息し後世だけに思想を伝えようかと悩んだ経験がある。
文化の分配者 disseminatorがいくら「みんな詩人」とか「あなたはアーティストですよ」と言い聞かせても皮膚の裏側までこびりついたクリエイターへの畏怖は拭い去れるものではない。浜松アーツ&クリエイション・浜松市文化振興財団・リノスクのボスと癒着した彼らから「文化芸術的に干される」という恐怖はいくらアズマジックで落とせない。
新参者だから、初心者だから、有名じゃないから、生業にしていないから自分は表舞台に立たない方がいい。そんな悲しい自己規制に私は静岡県西部で何度か出合った。こんな自己抑制はなぜ生まれる? それは文化の寡占者 possessor が都市や地域に存在し「私たちこそが文化芸術です」という顔をしているからだ。地域の可能性が閉ざされている。
旋頭歌。小学生版画クラブはロバートのネタ 皺ふかき不気味な顔の秋山と馬場
クリエイト浜松のがぞう(画像)投稿について、白黒にして色情報を減らすかわりに縦横をそれぞれ1.4倍くらいに増やす案をいま考えています。がぞう機能不要論もあると思いますけれど、ご意見ください。
浜松科学館みらいーらのお食事スペースに掲示されている、日本語教室に通う生徒さんたちが作った短歌。書は浜松学芸高等学校の生徒たち。橘曙覧の独楽吟風に。〈楽しみは図工の時間はん画ほりドラゴンのきばぶきみに光る/歩斗流〉
浜松駅コンコースのBellmartが新しくなっていました。2台のセルフレジが登場。
政治・社会と(言語)芸術とが密接に関わり、芸術の社会への置き方としての批評が力を持っていた時代の勢いを、拝読して感じました。
訂正します。『言語にとって美とは何か』(吉本隆明)。自分で〈モグリ〉と言っているようなものですね。失礼しました。
永田和宏『表現の吃水』(而立書房発行)所収の歌論「問と答の合わせ鏡」。現代短歌の表現の可能性を追究する論考だったように記憶している。むかしの永田さんは気鋭の論客だったなあ。『表現の吃水』は、かつての大学短歌会で『表現にとって美とは何か』と共に「これ読んで無いヤツはモグリ。話になんないし」的な必読書だった。
旋頭歌。歌会で主宰の君が入れるツッコミ永遠に三十一文字のボケでありたい
愛玩犬チワワの先祖である食用犬テチチは人類の食糧だったらしいのですが、パタゴニア犬は餌がなくなると誰かを犠牲にして人肉を与えていたようですね。
2020年代中頃の浜松市クリエイター等を含む文化芸術活動への批評以後(或いは「詩幣」以後?)、なんとなく一括りに文化の体現者と見なされていたクリエイターは活動の性質により文化の寡占者possessorと文化の分配者disseminatorへ分類されるようになる。特にリトマス試験紙としての批評と向き合う態度によって分類される。
チワワよりもパタゴニアの方が好き。広いからではなく変化に富むから。
地域文化資料となりそうな画像は紙幅のゆるすかぎりなるべく掲載するので『断食月』著者のみなさんの投稿に期待します。
楊柳の熟語があるが、漢詩だと楊が平で柳が仄なので特に気にせず入れ替える時もある。
批評は、絶対に正しいとされている側の化けの皮を剥がす大逆転こそが醍醐味。クリフェスの有言不実行を糺すような、「正義」の立場からの安易な批評は私の好みではない。
2月のオープンミーティング「はなしてみる」でハママツクリエーターズフェスのステートメントを掲載したウェブサイトを3月末に公開すると発言があったけどすでに誰か見た?
人麻呂の「刈れども」に呼応したのと川楊は定期的に剪定が必要だそうです。ただ哀惜の念はあるかもしれません。
最近、街路樹や公園樹などの伐採が多い。やむをえない事情はあろうが、目にするたびに哀惜の念をおぼえる。わたしは〈切断の〉の歌をそう読んだのですが、違うかな。
季節の移り変わりに気付く感性はだいじにしていきたいですよね〜
林芙美子では無いが、きのう散策中に「春が来たんだ」とおもった。
啄木の〈柳〉も、厳密にいえばシロヤナギ、つまり〈楊〉の方だそうです。
昨日訪れた万葉の森公園に看板がありましたので。ちなみにその看板によると柳と楊は異なる木を示すそうです。吾跡川楊は引佐細江の気賀説とまったく別の土地説もあるそう。
楊(柳)→涙(泣けとごとくに)→若葉(柳あをめる)で思い浮ぶのが啄木なんですよね。聖書の影響は歴然。人麿の旋頭歌はわたしも〈意外発見〉、しかも地元の歌とは…
実は〈霰降り遠江の吾跡川楊刈れどもまたも生ふとふ吾跡川楊/柿本人麻呂〉からなので〈やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに/啄木〉は意外発見。感謝。
切断の痕を空へ見せびらかし川楊には涙の若葉(甲太郎)。旧約聖書詩篇137バビロン捕囚の件りを彷彿させる啄木の〈北上の岸辺〉をさらにふまえた構成が面白い。結句佳し。
萬葉のこゑなきうたをメロディにのせて…テニヲハの使いかたはこっちが正解。作者としては、メロディを万葉歌の新たな装いと捉えて既出のかたちに詠んだ。言い訳ですよね。
農工業地域での有用の重視は合理的、でも詩歌文芸のような無用を軽視すると文化の豊かさを損なう。「故有之以為利無之以為用」(老)、「知無用而始可與言用矣」(荘)