むかしのことば
ぜんぶで 2672 こ / 6 ぺーじ / いま 2 ぺーじ
インドネシアから来たひとたちが礼拝にくるんでしょうか?
浜松科学館は仙田満の〈遊環構造〉理論をはじめて適用した建造物とのこと。ロボ君も頭部だけ残る。(40周年記念特別展示「浜松科学館の歴史」より)
路上観察:浜松まつり統監部(浜松市)JRの高架下、かつて制服が軍服っぽいとここで話題になっていた。
浜松まちなかPクーポン。浜松駅周辺の駐車場料金サービス券、提携しているかと思ったら提携していない駐車場だったり、2枚重ねて入れたら1枚分の券しか有効じゃなかったり、失敗を乗り越えさせてくれるクーポン券
"まひるの太陽の下で/ほほえむおまえに/わたしは/礼拝をおくった/(原始人たちの敬虔さが/わたしにはわかるような気がした)"「アリカンテ」『高橋睦郎詩作集成Ⅰ』思潮社
路上観察:寺脇町のモハモディモスク浜松(浜松市)イスラームの正午礼拝ズフルZuhrだからだろう、駐車場はもちろん西の農道にまで駐車列が伸びる。ムスリムの勢いを感じた。
北寺島の龍光屋。そば屋の門構えだけれどメニューは中華麺とうどんと丼物のみ。メインはチャーシューつけ麺
路上観察:北寺島公園(浜松市)丘の滑り台とブランコは使えない
株式会社丹青社の概要に「商業空間・パブリック空間・ホスピタリティ空間・文化空間・ビジネス空間・イベント空間の調査・企画、デザイン・設計、制作・施工、運営」とある。随分細分化しているが全く共通項が無いわけでもなさそうだ。
"博物館、美術館等の整備・再生、文化財の保存環境整備など、
文化空間の専門シンクタンクである丹青研究所にお任せください。" Contact/お問い合わせ 丹青研究所HP
https://www.tanseiken.jp/ 最下部より 廃素な文化だけを扱っているのだろう。私は商品に成り得なくとも人間の生活空間全てが文化空間だと考えるが。
浜松市の運動会用語「僥倖」偶然が勝敗を左右する種目、「縦割り」異学年混合
一番重要なのは、機械にとって数値化出来ない事は評価不能であることだ。人間の直感を数値化する努力を続ける必要がある。それなら態々機械化しなくても良い。
機械に私心はない筈だが、運用者は人間である。組織内の政治に使う者が現れないとも限らない。それにたとえ機械に任せても判断の偏りを学習してしまう虞がある。一極集中での効率化は不可能である。
後、殆どの人は週40時間働けるように出来ていない。普通に勤務している人も細切れに休憩を取っていて、一日八時間全神経を集中させている者はごく少数である。余裕がなくなると不手際が増えるだろう。自動記録による𠮟責は非現実的な水準を課し易く心身を病ませる。
文化空間を追求するあまり文化空間を満たす人を置き去りにしそうな雰囲気はある。例えば連結先の記事に出ている事務や勤怠管理の自動化は結構だが、その日の業務内容を振り返る時間を設けた方が良い。記録に残っていても記憶に残っていないと適切に動けない。
オープン・ミュージアム・ラボの戦略予測:① サイダーハウス・ルールに続き〈しろくま古本市〉〈水曜日のヨル喫茶〉等に参加、オープン性のアリバイ確保。② 丹青研究所へアンケート提出・再委託(外注)獲得、③ 館内ワークショップスペース・ローカルレジデンス空間の提案(OMLによる運営管理?)。アンケートで必要なのは意見ではなく数?
乃村工藝社は100年以上の歴史がある由。菊人形の飾りつけ‘display’から業界大手に成長発展した。わたしとしてはどうしても若かりし筒井康隆の職場として銘記せられている。『腹立半分日記』を御参照ください。
わたしの路傍流瞥。浜松市中央区幸5丁目。ゆうべの雨は止み、快晴のうちに夜はあけた。翼をすぼめぎみにひろげて翔るような雲。
わたしの路傍流瞥。中央区住吉2丁目。南京櫨の強剪定がはじまったのは10年以上まえか。大量の落葉、車道へとのびる枝が迷惑だからと、毎年晩秋に一斉剪定がおこなわれる。櫨はすっかり盆栽になってしまった。
霧雨。浜松市中央区幸1丁目と3丁目とをつなぐ歩道橋から南をのぞむ。
1940年代前半の太宰治の小説を評価する向きは多いです。わたしも『御伽草子』の「瘤取り」「浦島太郎」がすきです。
仕事が忙しいのでしょう。新しい浜松市美術館をめぐり、市✕丹青✕OML✕市民が2027年2月までどう合従連衡していくのだろう?
丹青研究所研究員のコラムがおととし6.11附から更新が無い。どうでもいいことかもしれませんが、ちょっと…
オープン・ミュージアム・ラボと市民を双方向に繋ぐ方法は模索したい。ただラボ側にその気がなければどうしようもない
「聞けば済む」は、ハママツクリエーターズフェスでの「聞いてくれればいいのに」を思い出す。それは「聞いてくれれば済ましたことにできるのに」と同義。すでに数人が済ましたことにされていた。批評は批評されるクリエーターのためだけに為されるのではない、批評は社会のために広場に置かれ、そして誰もがそれを活用できる。
私自身が過敏になっていました。「聞けば済む事なのに」で始まる意見を直接表明しないのは確かに矛盾するので別件と考えるのが自然でしたね。
ここが世論誘導と思うのならば、銘々が自分の意見を色々な場所で発信して、対話を始める。一部界隈が盛り上がっているだけの現状から全市民の参加する議論となるだろう。オープン・ミュージアム・ラボが閉鎖的だとの陰謀論を消滅させるのだ。
オープン・ミュージアム・ラボは市民を排除するから脳みそ担当が欲しくなる。脳みそ担当が欲しいならこのクリエイト浜松みたいに地域を脳みそにすればいい。アンケートではみそは集められても脳は集まらない
う〜む。繰返し読まないとどうも意味が取れない箇所が多くて。印象にのこったのは「他人の脳みそがほしいんですよ、わたしバカなんで」というくだり。こういうところにばっかり目が行ってしまってすみません。
そうですね。浜松市出身の画家の山口一郎さんは1969年生れ、小樽市出身のサカナクションの山口一郎さんは1980年生れ。画家の山口さんは、ギターを抱えていても違和感が無さそう。
恐らくお二方の意見が雑ざってしまったのだろう。駅前バスターミナル地下広場に市民は集まっている。図書館分室は遠鉄百貨店の高層にある。アクトホールは文化施設と言える。新浜松駅はままちプラスもある。市民ギャラリーらしきものもある。再開発せず、現状で十分だと思う。
路上観察:県道413号線がかつて国道1号線だった名残り(磐田市)加茂川交差点→国府台北交差点
失礼しました。この掲示板のOML関連の投稿を読み返して、出直します。
ひとりひとりが〈文化藝術をたのしむ自由〉を自分で決められればいいですね〜
文責なんてチャチなことではなく、オープン・ミュージアム・ラボという私的な集団が芸術やアートっぽいというイメージだけでなんら方針を示すことなく市民と文化行政の橋渡しを私物化しようとする危険性を問題視していきたいかな
自動書き起こしアプリをつかったらしいので、文責は問えないか。
オープン・ミュージアム・ラボさんは私的な活動なので文責を問うのはかわいそう
速記録では無いので省略箇所が多いためか〈バスもみんな集まってくる〉と言っておいてから〈バスも減ってくるはず〉と発言したことになっている。てか、文責は誰?
車社会にしたいのか(親スズキ)、車を減らしたいのか(反スズキ)はっきりせい、というのが寒竹氏の意見への感想です
"駅前のバスターミナルの上に建物を建てる構想を考えている。バスターミナルは負の遺産。バスターミナルの真上にものを建てることはできる。直径100mもある。その建物に市役所も美術館も入れちゃう。車は2000~3000台入っちゃう。街に広場がない。駅前に広場を作る。バスもみんな集まってくる(略)"
https://x.gd/CHSao ですね
〈バスターミナルの上に建物を建てる〉よりもなによりも、土鳩を退治してほしい。
と、ここで第3回ゆーしきしゃカイギ議事録に話をかえたりするんですが。SUACもと副学長の寒竹伸一(かんたけ・しんいち)氏の〈駅前のバスターミナルの上に建物を建てる構想を考えている〉以下の発言。なぜ〈バスターミナルは負の遺産〉なのかわからないが、おもいつきを口から並べたような発言が… どうおもいます?
ながながと伊藤廉の著書から引用してしまいました。これらが、わたしの〈文化藝術をたのしむ自由〉の、根本原理といったら大袈裟でしょうか。他者のことばをかりてあれこれ申しあげたしだいです。不悪御容赦を…
絵は眼だけの仕事ではない。組みたてによってできたつりあいをかくのが仕事だと考えたのが、セザンヌです。(略)セザンヌが考えたことは、眼に見えるとおりに物を写すことではない。物が見えているわけをかくのです。この物が見えているわけは、そこに宇宙と同じ値打ちのものをつくることでした。〉伊藤廉『絵の話』
科学では、一つの正しいことが証明されたら、それに反対のことは、みな誤りです。芸術は、そうではないのです。一つの考え方があると、その反対の考え方もあるのです。(伊藤廉『絵の話』)
自然を絵ごころで見るとは、自然を見るときに、絵にかくのに都合のいいように見るということです。自然物は絵にかいてもらいたいとおもって、絵に都合のいいような顔をしているのではない。(略)絵にかくのに都合のいい顔にするには、邪魔になるものをとってしまうのです。(略)そうすると、自然物は絵という物になります。〉伊藤廉『絵の話』
伊藤廉〈(ルッソーは)絵のかき方を何も知らなかったのではない。ただ、こころが純なままに、絵にでてきたのですから、(略)そのやさしさに、こころが一ぱいにふくらむ感じになります〉。草森紳一〈ルッソーの絵は、どのような部分トリミングにも耐えることができる。切り口ひとつで、新しい世界が生まれる。これは、森羅萬象の原理である〉
マチスが5歳の子供のようにかけといったのは、物の一番大切なところだけをかけということでした。そうするにはどうしたらいいのかといえば、一番強く感じたところだけかくことです。それは、できるだけ簡単にすることです。(略)。子供は強く感じたものだけをかきます。(略)。大人は上手にかこうとおもいます。(伊藤廉『絵の話』)
画家伊藤廉のことば。〈絵はどんなかき方をしてもいいといっても、絵になるために、どうしても必要なものがある。色の明るさと暗さとの度合の正しさと、形のつり合いの確かさとの二つです。〉『絵の話』(美術出版社、1967)
絵がわかるとかわからないとかいうことは、むずかしく考えてはいけません。若葉の緑、花の紅に、何かを感ずるところで、十分に間にあうことです。そういうこころが、自分のこころのなかにあることを、自分でわかるようになったのが絵ごころです。(伊藤廉『絵の話』1967)藝術・美術をうむのはモノでは無くココロという基本をわすれまい。
宿痾をかかえながら(梶井基次郎-肺結核、色川武大/阿佐田哲也-ナルコレプシー)小説を書いたところも、よく似ているとおもいます。色川は若いころから複数のペンネームをつかってエンタメ系の読物を執筆。胆石の手術・入院費を捻出するために『麻雀放浪記』を〈阿佐田哲也〉名義で執筆したのです、たしか。
"アメリカ映画のスタッフの名前を覚えて各人の社歴を注視したり、実在の相撲の力士や野球選手の名前を書いたカードを作り、サイコロを振って勝敗をつける独自のゲームを考案して一人遊びに熱中したりした。" 色川武大 Wikipedia なんだか凝り性ですね。親近感が湧く。
浜松の古本屋で時々使い込んだペーパーバッグの英英辞典を見付けるのはここの影響かも知れない。以前贖ったのはConcise Oxford DictionaryではなくThe Oxford Desk Dictionary and Thesaurus(1997年米国版)だったが。
梶井基次郎。かれの年譜をよむと、結核をわずらわなければどんな半生をおくっただろうとおもう。罹患してこそあえて放蕩、粗暴な振舞をおこなったともおもえるし、短篇が廿をかぞえるのみでも、命をけずるように小説を執筆したともおもえる。ともあれ梶井の遺した諸篇は後生に影響した。開高健然り。色川武大「ひとり博奕」もまた然らずや。
この掲示板のありがたい/おもしろいところは、わたしが(失礼ながら)列挙のオチとしてあげただけの〈齋藤英語塾〉で、どんどん話柄が拡大、というか逸脱するところです。感謝します。
横断的に文芸に勤しんだ方らしいので今後の活動の参考になるかもしれません。買うには高いので近くに参った時には拝見させて頂きます。
まず基本語彙からはじめて、そこからいきなり古典的英文法を叩きこみ英詩(しかも長篇の‘Enoch Arden’)の暗誦もさせる。当てられてうまく答えられなかったらデカい杓文字で肩を叩く。齋藤英語塾は昭和の寺子屋ですねえ。
戒めに杓文字ではたく指導に行き着いたのが禅宗の竹箆みたいで面白い。
浜松市立中央図書館1階の新着図書コーナー。先月から『高橋睦郎詩作集成』第1巻がずっとある。わたしは手にとって、高橋氏の詩業に感服した次第だが。だれも借りてかえらないようなのが残念。
出放題さんのブログの添付までいただきありがとうございます♪ おかげで、浜松城天守閣からの眺望をとらえた1971年の写真まで観ることができました。
藤田丈久さんのホームページからの添付、ありがとうございます。こういう御好意により、アルフレッド・テニヤン『エノック(イノック)・アーデン』をはじめて知ることができました。日本の多くのメロドラマのネタもとは、この長篇詩かもしれません。
今日の午後3時34分に浜松市の細江神社に爆破予告が出ている。
纏めブログに転載してあった2ch投稿で中近世の城を中心街とした都市は権力の固着が著しいと主張する人がいたことを思い出した。浜松は活発だから収まりきらなかったのかも知れない。
そういえば市役所とお城を中心に、体育館、動物園、小学校、高校、図書館、齋藤英語塾と、元城・松城一帯を文教地区としたかった自治体側の意嚮がうかがえますね。
依怙贔屓が無ければ公私は問わなくていいかもしれませんね。
市民ギャラリーの定義:市内の非営利の個人又は団体が無料で一定期間借りられる公共の展示の場
私は野良芸術の紹介は好きです。内輪向け発表用資料だったので箸休めに使っていたのでしょう。詰めの甘い部分はリンク集を辿って自分でも検索してみると面白そうです。公開情報を纏める事に価値を見出さなかったそうなので仕方ないかもしれません。市民へ時間を投資すると言い換える事もでき、市民団体としての公共性を高める行いなのですが。
13:34ってのも多いですね。そういえば〈爆破予告〉の落語は無いですかね。長屋の住人が爆破予告に翻弄せられる。「粗忽の釘」「道具屋」「長屋の花見」「大工調べ」などのパロディにもなっている。誰かやってくれないかなあ…
同感。浜松市美術館設立の経緯も詰めが甘いかなとおもいました。〈野良芸術〉の画像要らないし。
ことしの浜松市路上演劇祭のプログラムを拝見。11時はじまりの19時ごろ終るかもよ、という、なんだか毎晩勤しんでおいでのスケボーの皆様がたの時間帯をさけているようなタイムテーブル。地下広場にいらっしゃる、いわゆる〈住所不定無職低収入〉の方がたは他所へ移らなくても大丈夫な感じでしょうか。演目を見ていたら笑けてしまった。
確かに自主的に醸成する服装規定の方が寄与する所が大きいです。アクトホールのコンサートも礼服ばかりで息が詰まります。私は関係なしに入りますが。
美術館の鑑賞者の雰囲気だったらわかります。浮世絵(たとえば歌川国芳)だったら和服を着て観にくる、みたいな。
すみません、今はじめて知りました。小中高校生の作品を紹介するコーナーだとおもって、あの地下通路を通るたびに観ていますが。
動物園に作品を一体化させれば態々箱物を増やす必要は無いとの極論も可。或いは美術館を動物園と勘違いするような設計が面白いか。
環境管理型権力は「太上下知有之」に近い。但し、内外意識が強くなりがち。移動の自由、どこへ至ってもいいの感覚を養うには、誰が来てもいいも一組にする必要がある。受身だと来客は厄介事が増えたとしか思えないだろう。但し、人間の暴力性は取り除けないと諦めている私でも戦争を起こす者は歓迎しない。
檸檬運動ですかね。実生活に即した奇を衒うでもなくすっきりとした文学というと梶井基次郎が思い浮かびます。
そうですね。それより、首都や大都市へのあこがれもあったかもしれません。「動物園の観客が、こっちへながれてくるかも」という狙いも。あるいは動物と美術の相乗効果とか。
当時の、文化レクリエーション施設を集約する都市計画の一環だったのかもしれませんね
浜松市美術館がいまの場所に建てられたのは、きっと東京・上野、あるいは大阪・天王寺に倣ったからかもしれない。どちらも動物園のそばに美術館がある。浜松城公園は旧動物園。
爆破予告よりもっと恐ろしい文学テロリズムを静岡県西部から広げていきたいものです
規律/訓練型権力と監視/管理型権力(環境管理型権力)
それと同時に備えは出来る事を忘れてはならない。然るべきことをせずにおいたら災害のような突然に見える出来事による報いがある。「若民恒且必畏■、則常有司■者■。夫司■者是大匠斲」化石燃料依存の緩和、心の休養、経済の不均衡を正すなどは向こう十年以上かけて取り組むしかない。
老子74章の理解が進まなかったが、最近の地球を見ているとなるほどと思う。無敵の人、天災と人災の分かち難さなどを説いているのだろう。東海地震や豪雨と同じで事故も事件も予知しようがない。■ぬときは■ぬ。
他人の色の付いた真実よりも、ありのままの事実の方がありがたい。なんでもそうだが、当然オープン・ミュージアム・ラボ関連の資料にも言える。
戦前の相互監視社会は市民自らが組織した団体によって構築されたと言う。今回の偽計業務妨害への反応はこの流れに繋がりそうだ。尤も怖いという感情とそれを引鉄とする予測で動くと自己成就予言になってしまうだろう。実行可能性は低いとはいえ命に係わるので冷静な判断は求むべくも無い。関与しないようにするしかない。
明日の午後3時以降に浜松市の細江神社に爆破予告が出た。怖い。
静岡新聞読者文芸「短歌」〈鍬肩に夕映えの野を帰る影かなたの兵士と銃に重なる/牧之原市 矢部輝夫〉ちょっと回想味がある。「川柳」〈叱られた遠い記憶の金縛り/浜松市中央区 高田圭〉睡眠麻痺とも、ストレスかも?
"5月27日(水)15時34分に細江神社を爆破する。"というもの。 この15時34分は立命館大学・ソウル・山口市役所・富山第一銀本店・川口市内教育機関などが標的になったときの時刻と同じですね。
路上観察:磐田駅の南では、黄色い紐を巻き余りを垂らした紺のつばあり帽子の青年が徘徊している。先週彼がジャケットを脱いだので夏を感じたら今日はジャケットを着ていた。
路上演劇祭が観客をそのままにしないようなものでしょう。中々乙ですね。
匿名掲示板の住人をほっとさせてもしょうがないのでときどき心臓マッサージしますね
私のブログでも時々起こる変動ではあったがなかなか心臓に悪い。公開して困る情報は書き込んでいないし論じるべき事をお出ししているのだが。
思考や感情等の神経活動は脳の内部だけで完結していない。神経の密度が高い所には他に腸がある。言葉を読み書きするにも視覚、聴覚、口や喉周りの運動、打鍵や筆記の時の手の運動等全体を使っている。昔の人の智慧の詰まった語を引き継がないと早晩文化が断絶するだろう。
きょうは、閲覧者数の変動に若干落着きがみられますね。ほっとしています。
〈お智慧を拝借〉という、れっきとした日本語があるのに… どうも、あの界隈の方がたがお使いになる言葉が馴染めなくて…
脳を借りるとの表現は蠟纈の字から受ける獵奇的な印象を髣髴とする。制作活動に関わる内に生まれた感覚だろうか。エリック・ガーナーのような気分になる。
2020年代浜松市におけるネーミングの流行。南はかなに開き、北は英字。
寐ねがたき夜をみづうみにみちたらひあしたの海へいでたつ潮
心配はしていないですけど、"社会による言語的操縦を免れた主体は、中井久夫が言う通り統合失調質を帯びがちです。"(『宮台式人類学』ちくま新書)言語的操縦≒技術-言語的なオートマティズム。脳の調子が整いオープン・ミュージアム・ラボによる操縦を受けやすい、扱いやすい市民になれますように
夜通しご心配をおかけしました。忝のうございます。頭の混乱は改善しました。いつでも貸し出せるように脳の調子を整えておかねば。
読まれる場は、読まれたい人よりも読む人の集まりなのかもしれませんね
ここも相当に加速しましたが、鄰人・遠人を傾聴する過去派としてあり続ける所存です。
地元の話題のページはSNSからの引用らしいです。匿名掲示板の雑談場かと思いました。充実しています。
(ラビュリントス) まだ融けぬこのイカロスの翼あり後強請りする意図こそあらね
ひむがしの野にはけぶりの気もあらず我らかぎろひの立つを夢みむ
われ幾たび歌ひし歌か〈ください〉と言はば得られむ翼ならねど
イカロスの愚行をおもふ声変りせざりしころの教科書の歌
イカロスは勇気もろとも堕ちにけり勇気を鉄と謳はれにけり
数ならぬ身はさりながら昧爽に消ぬべき星をかぞへむとする
おんばさらおんばひがさのがらまさでなぎぽんからんしえそんくして
コチュジャンのような夕陽に染まるだけそまった街にたかるムクドリ
どこに居ても至ってもいいわたしたち駅前地下の演劇まぢか
えんげきのまつりもよほすちかひろばすけーとぼーどきんぜらるべし
えんげきのまつりをちかみちかにすむひとことごとくおひややるべし
えんげきのちかのまつりのちかければまつりだいわういでましたまへ
どこにゐてもいたつてもいいてふまつりちかくちかにておこなはるべし
あんぼきやあぼだいうんけんかびらぶつじよんはあにきでおとうとはじえい
あんぼきやああびらうんけんかびらぶつじよんはあにきでおとうとはじえい
こころねのわろかりしころがさじやいだぎんふいぽがんはんはをじや
そはまさしくばちかぶりなりたきたてのめしにうんこをひりおとししは
たきたてのめしにうんこをひりおとすすたーりんなるばんどはありき
そんな狼狽しなさんな。我々は遠州131万人の読みに耐えうることを書きこんできたのだから
それだけで1時間100人(延べ)も閲覧しますかねえ。
演目の解釈でさえもどこに至ってもいいのかも知れません。
佐伯一郎関聯のコメントも読まれたかな。いや、飛ばして読んじゃうかな?
〈何処に至っても良い〉。路上のどこに〈至って〉観劇してものーぷろぶれむ&ウェルカムってことでしょうか?
何処に至っても良いと読みました。にしても仮名に開くのが流行りなのだろうか。
たしかに〈どこにいたってもいい〉というしゃべり言葉〈東京方言?関八州全般の?)は聞いたことがありますけど〈どこに居ても立ってもいい〉という意味でしょうか。
日曜と月曜の閲覧者数がやけに多いと思っていた。オープン・ミュージアム・ラボに関しての増加かと思ったが、もしかして疑われているのだろうか。それともこれが噂のバイトか。
たった1時間で100人もの閲覧者数(延べ)。どうして?!
ゴMNTさんは濡れ衣? 動画界隈の内輪揉めで浜松駅南の保護者は大迷惑です
そうですね、名だけウェルカム、実態は閉鎖的。オープン・ミュージアム・ラボは名実を使い分けています、そこに気づかない3000人だけを相手にしたくて、名実の不一致に気づける層は扱いやすい客体にならないから排除したいのかもしれません
たった一日で300人ちかくの閲覧者数(延べ)。これは何祭り?
性悪説と呼ばれる荀子も環境によって人は変わると言っているので実は孟荀の現状認識の差は存在していない。善悪の名は対処法の差である。孟子は相手を信じて粘り強く待つと、荀子は礼を明文化して賞罰を用いると説いた。
協賛金を募る方法があるが、金融機関の送金には手数料が掛かる。支払う側は賽銭箱や募金箱の方が嬉しいが受け手の事務と管理の手間を要する。それにしても千円送るのに20%消えるのはどうにかして欲しい。
予告の17時37分を過ぎたのでとりあえず何も起きていない、と思います、願います
0525173710をポケベル読みすると゜コBLE
文字コードにするとdfba424c45
そこまで深読みしなくていいか
圦は日本式形声文字。水門といえば閖上のゆりが思い浮かぶ。和字は趣深い。
0525173710をポケベル読みするのか光センサーまたは光電池付きの爆破装置か。ただの愉快犯だろう。迷惑千万である。
動員数と評価は無関係で収支を単純な乗算で求められる状態は宜しくない。芸術の売り方は分かる人が沢山払うという現状である。と金の話はかったるい。最初から数字で扱うと経理の話に結びつきやすくなってしまう。それよりかは自由回答欄の応援ではなく意見を熟読する方が良い。自由回答欄を適切に数値化する取り組みは創造的だろう。
入館料のNYOPとは賽銭のようなもので、来訪者が顔の見えない誰かの為の環境整備として設置するとの意図。出羽守を招聘すると、英米の博物館は寄付金で運営していると言うだろう。或いは登呂博物館のような無料公開域を設けても良いと思う。
自分宛ての言葉として解釈する以外に匿名掲示板で必要なことは、伝わるのに時間差があることです。即応を期待すると疲れます。
佐鳴湖畔の入野とおなじ由来ですね。むかし水門(樋)があった…
突如として来年3月の浜松市議会議員選挙に向けた演説のはじまる平和な月曜日夕方の公園
まだ具体的に纏まっていないのだが、感覚情報量と結びつけやすいのは大まかな居住区、趣味嗜好などで、それらを美術に興味の無い人、美術から排除されてきた人の為の雰囲気作りに役立てられると思う。他には入館料をどのくらいに設定したらいいか判断する為の経済状況だが、これは希望する入館料を提示した上でのNYOPも選択肢に入ると思う。
私も、クリエーターにも美術館にも支配されず文化を楽しもうと思います
「個人が特定されることはありません」って、アンケートの数を集めるためには必要だけれど、回答した市民を数として扱いますよというOML側の宣言ですよね。名を列挙するラボメンと数として扱われる市民の対比が際立ちます。
浜松中央警察署・浜松市教育委員会経由の情報、浜松市内小学校の爆破予告があるとのこと。5月25日午後5時37分10秒に起爆するという爆弾が双葉小学校、県居小学校、竜禅寺小学校、浅間小学校などに仕掛けられたらしい。お近くにお住まいの方は念のため気をつけて。日没の一時間前だけどなんのためだろう?
"何かを見たとき、根拠もなしに「これは私宛ての贈り物だ」と宣言できる能力のことを「人間性」と呼んでいいと僕は思います。"(内田樹『街場のメディア論』光文社新書)匿名掲示板で必要なのは人間性、すべてのことばを自分宛てと思い込むこと
感覚情報量のほかには議論の前提としてどんな事実があるといいでしょうか
発信した情報、即ち対面での話やパソコンに入力した数拠、情報産業や諜報機関が端末から勝手に収集している画像や音声などは全て公開されるものとして行動するのが一番確実な危機管理である。
こうなると、そもそもメールアドレスや氏名の記入は必要ない。不用な個人情報を集めないことが一番の情報漏洩対策である。ないものは盗めないし漏れようがない。自由回答欄の記入が無いものは別に集計するなども一つの手ではある。
刺戟感受性とでも名付けるが、この回答をした人の他の属性の関連を調べる。これが統計処理の実例の一つ。「調査結果は統計処理するので個人が特定されることはありません」ではなくて「調査結果は匿名化した上で今後の検討資料として公開します」と表記すべき。
浜松は東京で受け取れる感覚情報の十分の一しかないとの事実の共有がある。その上で或る人は街を作品で一杯にしようと主張し、他の人は今のままでいいと主張する。いや、過剰だから減らしてほしいと主張する人もいる。これは美術館アンケートの質問事項として重要だと思う。議論の前提としての事実を集計すると話しやすくなる。
いやあこれはありがたいし凄い! じっ くり読ませていただきますね。
意図と行動としての企画との差を縮めるのが批評だ。批評は鏡だ。鏡を見て化粧した顔と意図した顔とが異なれば悲しい。鏡がなければ悲しくはならないけれど、ずっと意図しない顔のままで過ごすことになる。
"こちらの部族が珍重するものの価値が他の部族には理解できない。その価値観の非同一性がなければ、そもそも交換は始まりません。だから、沈黙交易において、交易の場に置かれるものはできるだけ「価値のわからないもの」でなければならない。"(内田樹『街場のメディア論』光文社新書)
https://goki.her.jp/ramazan/
ゆーしきしゃカイギのスライド「誰しもがクリエイティビティを発揮できる地域にする」は真意だろう。オープン・ミュージアム・ラボが悪意や寡占欲で活動しているとは考えていない。しかしハママツクリエーターズフェスと同様に企画・演出・運営が下手で社会の知識がないために結果としての行動がクリエイター階級づくりに陥ってしまっている。
けだものののみどにこゑはこみあげてほゆるもつきはくもにかくるる
(すべて、とは言いませんが)藝能人は〈見返してやりたい〉〈復讐してやりたい〉という黯いこころをひめてデビュー、のしあがったり、のしあがれなかったりするものです。アイドルに多いかな?
叢雲を払う夜風のいがいがと吹き付け喉をつきさしにけり ゐがゐが五月蠅くして済みません。全方位を巻き込んで自爆しました。
〈都をば今は遥かに遠江月の隈なき月見の郷/橘逸勢〉の結句を六拍で読むのはまちがいで七拍。なので月見の里学遊館が袋井市上山梨にあるというわけ。
頑張る動機が自分を蔑んだ社会を見返してやりたいとか、復讐してやりたいでは大概報われないものである。今こそ楊子やエピクロスの原典を読み返し復習したい。
偏見だが、文化度を誇りたい人はカラオケでO~! Champs Elyseesと叫んでいそう。自分も昔はそうだった。
文化度を競いたい方々は東京や紐育、巴里を目指してください。向上心が大切との思想を有言実行してください。私は勝手に文化を楽しみます。
私も人に善又は悪を志すだけの主体性があるとは到底思えない。あったとしても何十年もかけて育んだものだろう。
孟子の「若夫為不善、非才之罪也」いわゆる性善説はスピノザのconatusと似ている。人が悪を為すのは外因・環境に因るという考えが
一部のクリエーターにとって文化藝術を〈たのしむ自由〉にまかせる市民がいることは我慢ならないのかも。だからこそ「文化とか芸術の大切さを市民に教育する発信を美術館をになってほしい」やアーツカウンシルでの「浜松の人にアートディレクションを知ってもらいたい」はたまた●●市民は文化度が低いなどという発言が出てくるのです。
路上観察:バスにGraffiti(磐田市)前野交差点の南
〈あなた‘you’も識者〉って“You're knowledgeable just like us.”のほかに“You're knowledgeable just like other experts.”や“You also will be an expert.”の意味もあるのでは?
もうひとつ。〈文化芸術を楽しむ権利〉って何ですか? わたしはこどもの頃から百貨店、美術館、いまは亡き月刊「太陽」、いまもある「芸術新潮」などで〈文化芸術を楽し〉んできましたが、べつに〈権利〉を行使したおぼえはありません。ただ、文化藝術を〈たのしむ自由〉にまかせただけです。
べつに美術館に教えてもらわなくても〈文化とか芸術の大切さ〉は知っているつもりです。美術館だけが〈文化とか芸術〉じゃ無いので。とはいえ美術館好きですよ。
〈佐伯一郎〉といえば、浜松市民文化会館(はまホール、ってこのネーミングもイヤ)で定期的におこなわれていた歌謡ショウがおもいだされる。文化会館の正面にむかって右手、五社神社との境に〈本日の催しもの〉みたいな看板があって、いつ来ても〈佐伯一郎〉がそこにあった。北原ミレイは高校生の頃豊川から通って佐伯のレッスンをうけていた。
昨日鴨江アートセンターのロビーで、ダジャレが好きな方の村木さんに「あれじゃあなたが悪者になっちゃいますよ」と言われたとき「悪者でいいんですよ」と答えました。そう、悪者になりたい、みんなが一生懸命固定化しようとしているクリエーター階層を破砕し、文化奴隷として囲い込まれつつある市民の喜ぶ笑顔を奪ってしまう悪者になりたい
途中経過その3。〈男/おとこ節〉と題する歌が多いですね。地名のみならず〈じょんから〉〈昭和の〉と銘打つ歌もあります。いまのところ〈南多郎〉なる歌手が謎なので、究明の進展は無いです。以上です。
いき氏の発言〈三十年(2030年か?)に開館するなら、はああああ!〉の、はああああって何なん?
いき氏には「文化とか芸術の大切さを市民に教育する発信を美術館をになってほしい。文化芸術を楽しむ権利を市民が自覚していないのは悲しい。有名になってプレイヤーとして盛り上げないとね、大谷翔平みたいに。」
https://x.gd/CHSao と上から市民を教化・啓蒙したい意図があり、それが財団やA&Cの思惑と一致したため権限が付与されたみたい
「お客さん側が喜ぶ」、その意図は創造都市浜松において準クリエーター・非クリエーターを客体として階層化・固定化させます。ハママツクリエーターズフェスが言う「敷居(ハードル)を下げる」はクリエーター階層間のハードルではありません。そこの点はオープン・ミュージアム・ラボも含め一貫しています。
なるほど。おかかえクリエーターに機会を与えるか、お客さん側が喜ぶクリエーターを優先するか難しいところですね。
というか、だもの氏にそんな権限があったとは。
途中経過その2。佐伯一郎は2020年12月20日に83歳で■去。「遠州男節」がそれ以降に発表せられ、しかも佐伯一郎の作品で無いならば、佐伯一門との関りは薄いとおもわれます。ちなみに「遠州男節」の作詞者花地京介さんは御当地ソングスを多作しておいでのようです。以上です。
途中経過その1。「遠州男節」とよく似た(というかほぼおなじ)タイトルの「遠州おとこ節」が1980年代前半ごろにポリドールからリリース。そっちは作詞作曲ともに佐伯一郎なので歌い手も佐伯ファミリーかな、と。で、宇佐見で知ったとおっしゃる「遠州男節」は最近の作品らしいです。歌詞も佐伯一郎の「おとこ節」とはぜんぜん違う。以上です。
いいなあ〈有志記者会議〉! 某You're knowledgable just like usあたりよりよっぽどセンスがいい。
佐伯一郎歌謡教室あたりをさぐれば出てきそう、調査結果を期待します
サーバーへの負荷はまだ無いので自重なさらず、固有名詞やurlや展示イベント名などを盛り込んでガシガシ投稿していってください。
ゆーしきしゃカイギを検証する有志記者会議開催中@クリエイト浜松 障害の件については投稿数制限に抵触したかと思いました。サーバに負荷が掛っているようなのでほんの少し自重します。
この「遠州男節」、花地京介さんは作詞家で、歌は南多郎さんが歌っていますね。南多郎さんは、やっぱり〈佐伯一郎門下の歌手でしょうか?〉
〈概要〉につきるとおもいます。やっぱり〈けっきょく何を調べたんでしょうか?〉
いまは亡き浜松松菱百貨店も、市美術館に負けないくらい積極的に美術展を開催していました。美術館には行ったことが無いっけえが松菱の催事場にはよく行ったに、と懐しむ向きもあろうかとおもいます。過去の企画をざっとあげれ、ピカソと女たち、魯山人、家康と遠江、山田かまちなど。
そういうことだったんですね。つい30分まえ、コメントが送れなくて焦りましたー。
基本は浜松市文化振興財団が費用を出しているハママツクリエーターズフェスは、いきものだもの氏が私的に選出したクリエーターを基盤にしています。だもんでおかかえクリエーターは選出の参考にする程度くらいのようです
【業務連絡】6時30分から6時50分くらいのあいだ投稿機能が破損していました。更新頻度の増加にともないindexのことば表示数を100こ→200こに増やし、「むかしのことば」を500こ/ぺーじに変更した作業にともなうミスです。現状は復旧していますが「重くなった」など不具合があれば教えてください。
〈10センチくらいの厚さ〉というと、むかしの浜松の職業別電話帳(タウンページ)ぐらいか? 貼込み、折込みで嵩ばる場合もあるので、実物をみないと何とも言えませんが、けっきょく何を調べたんでしょう?
〈ゆーしきしゃ〉というネーミングが個人的にイヤですね。〈あなた‘you’も識者〉という由来も、です。誰でもウェルカムと見せかけてぜんぜん真逆じゃ無いですか?
縄文人の祖先が千人程度の集団だったとの遺伝子学の説もありますね。
現在の日本が単に「日本国」と名乗っている価値を考えるならば、民主制国家として当たり前のことを備えていて、それは憲法によって国民の共通認識となっているという前提があるのだろう。独裁への梶を切る口実でない事を我々は常に証明し続けなければならない。
正直オープンやローカルコレクティブを名乗らなければここまで追及する心算は無かった。
このような検証からの防衛策として生み出されただろうものが、大量の情報で混乱させる、英語でディスインフォメーションという情報戦術、官僚が作成するスライド、俗称「ポンチ絵」である。
末尾に「と考えました」が抜けていました。公開情報にも不透明性は残っている。調べ学習をした方が感じられただろう行政の情報発信の複雑奇怪さを引き継いでしまったようです。 尚、抜粋は「いつの間にか10センチくらいの厚さ」になった市美についての調べ学習の資料を発表用に整えた資料からだろう。"資料は部外秘でお願いします!"とあるが。
公開情報の検証に時間を割く。"前提の確認ー私の立場についてー本来であれば、市美については「市美の人」が話すべきだと思います。しかし、行政側(内側)の人が話せることは、“公開情報“のみ。それ以上も以下も立場上、難しい。であるなら、我々[OML]も市美側も互いの時間を使い、“公開情報“を知り・教え合うために時間をとる意味はない"
民衆が信用しない調査の例に報道機関の世論調査を挙げたが、精密な方である。宣伝の顧客満足度調査と言うべきだった。OMLが身内で共有した浜松市公聴モニターの調査結果や国立アートリサーチセンターの意識調査でも美術館に全く行かない人は三人に一人はいるとでている。アンケートが現在公の調査よりも乖離しているのは明白である。
Viveiros de Castroはブラジルの人類学者だから単一文化とか多自然主義を唱えられたのかも。アメリカ大陸の現生人類の遺伝子多様性は、たとえば先住民の血液型がほぼO型のように、アフリカ大陸よりも少ない。
いまやカフェも文化施設のひとつでしょう。でも、もし〈オープン・ミュージアム・ラボ〉のチラシがヘルス天竜やスチームバス浜松やキャバクラやガールズバーに置いてあったら彼らの本気を信じていいだろう、インタビュアーの前で身をくねらせたがる彼らが工場やパチンコ屋でアンケートへの回答を訴えたら彼らの本気を確信していいだろう
わたしは公共施設あるいはそれ以外の場所でチラシをおいてあるのを見たことがありませんし、OMG、もといOMLのチラシくばりに遭遇したこともありません。
〈ハガキ〉って、切手を貼らずに投函できるものですか?
何だか昔のQさまの脳内イメージ漢字リレーを読み解くアンカーのような緊張感が漂う話ですね。当然遊びでは済まされないのですが。
そういうバイトがいることは確かでしょう。ただバイトによる機械的な文言は浜松市のクリエーターらの「オープン~」のような技術-言語的なオートマティズムによる文言もさほど変わらないと考えます。誰が、どんな肩書の人が書いているのではなく、何が書かれているのかに重点を置いて読んでいきたいと思います。
半ば陰謀論である事は自覚しているが、広告代理店やフラッシュモブ的なバイトを動かす人が居る。SNSやコメント欄での機械的操作もある。機械的な回答、自由回答欄の非自発的作文を分析できるか。それとも、市民の一部として捉えて処理するのか。……やはり具体性に欠ける噂に過ぎないので忘れて下さい。自分で書いていて恥ずかしくなってきた。
ちょっとわからないので業者の具体例をおしえてください
OMLに関して、このような祭りがあると資本等をちらつかせて情報を攪乱したり世論を誘導する業者が現れるが、その対策や分析能力はあるのか。
ちなみに今日は100cafeにオープン・ミュージアム・ラボのハガキが置いてあるのを見ました!
OMLのチラシを公私の文化施設以外で見た人は居ますか。市役所などには置いているのだろうか。駅前で配ったことはあるのか。はっきり言うと報道機関の世論調査よりも精度が低い。属性の偏りを正すのは一番初めに行う「統計処理」だと思う。
第三回くわだてとたくらみ賞(2026年分)はこの匿名掲示板のみなさんからの推薦で決めようと考えています。
https://goki.her.jp/kuwataku.html ①イベント名と②公式ページURLと③授賞理由を書き「第三回くわたく賞」をどこかに書いて投稿してください。いまのところ「オープン・ミュージアム・ラボ」が最有力候補!?
文化の普遍の原則は確かに共通するものだと思う。それが何かは掲示板を丹念に読めば伝わると信じている。
湖西市アメニティプラザでなぜかそれだけできる平泳ぎを練習。静岡県西部のプールで日焼けせず流れるプールもウォータースライダーも波のプールも楽しめるのはここだけでは?
ハママツクリエーターズフェス2026「みんなのおんど」温度/音頭? 今回も公募はなし。オープン・ミュージアム・ラボとの共通メンバーは林満里奈さんのみ、空閑渉さんはコーディネーター美帆さんと親族? ただ遠州天狗屋は「ディレクションとワークショップ担当」と書いているなどナンバリング時代の影響力は残存させている模様
ことしのクリフェスは昨年ちらほら上がっていたメンツの固定化の危惧をくみ取ったようで素晴らしい!
ただし告知が例年より一月ほど遅れてもう二ヶ月切っているようで、なかなか苦戦が伺える
アートに関心の高い層は足を運ぶので、関心の低い層が足を運ぶを目指した方がいいのでは?
"「自然がひとつで文化が多様」なのではない。逆。「文化はひとつで自然が多様」とする多自然主義だけが人類を存続させたと。"(『宮台式人類学』ちくま新書)多文化主義ではなくEduardo Batalha Viveiros de Castroの多自然主義。ちょっと刺激がつよい
2. 理念:『体系化への反逆と、偶然性の美学』
• スローガン: 「選ぶな、選ばせるな、ただ漂え」
3. 活動内容:『まち全体をカオスにするブリコラージュ実証実験』• 事業A:【収蔵品の風化プロジェクト】
法律の文言は硬いので敬遠されがちだが、よく読むと血の通った人間が作ったことがわかる。
〈無余地〉はじめて知りました。日本語は奥がふかい…
運営母体:『名もなき徘徊者たちの無政府(アナキズム)サークル』• 体制: 代表、中心者、コアメンバーなどの「権力」は一切排除。
カフェで合意したことを大衆に強制するのは、料亭で談合する政治家と変わらない。
鴨江アートセンターにて。柴田智明のオープンスタジオ5/27〜6/3。しろくま古本市6/6(土)10〜17時@北田町。ど・ど・いのつどい6/20(土)14〜16時@浜松駅バスターミナル地下広場。Your Friendly Neighborhood@TEHOM 6/20(土)19時〜。
そうそうそうそうそうそう。だから、この掲示板でわたしは〈はまホール〉で検索するとすぐ出てくるはずのコメントを投稿したんですよ。
〈一群の蟻〉のなかのいっぴき。群から迷いでて、持主が他の蟻を野に措き往きて失せたる我を見いだすまでは尋ねざらんや、べけんやってね。んでもって帰宅して叫ぶんですな。「我とともに喜べ、わが失せたる蟻いっぴきを見いだせり」
ページ管理人のお金の価値観が好き。「このホームページはシェアウェアです」はどっきりするが、ユーモアに溢れていた。
〈喫茶たじま〉で短篇が書けそう。内田百閒のように夢幻的な。
選択肢に限定する流れは実はチラシにも感じ取ることができる。「デートで行きたい」「美術館っぽくない美術館があったら、、」「カフェがあったらいいな~」「夜も楽しめる美術館があったら面白そう」「授業でも使える場所になるといい」13個のうち左の5つを抜粋したがどこかで聞いたような意見広告ばかりで回答者の思考停止を助長する。
個人的におもしろかったのは新幹線特急券をわって購入すると割安ってところ。わたしもよくやりましたよ。
路地のおばちゃんが北魏の石仏の管理者になり「■んだ主人にお顔が似てたもんで」、まちに散在する美術品を探し求めてまちを徘徊する逍遥者たち、無名のアーティストがガラス絵の管理者となり訪問者にガラス絵をモチーフにした作品を販売とか。オープン「ミュージアム・ラボ」ではなく「オープン・ミュージアム」ラボになっちゃうけれど
新しい浜松市美術館はbricolage型を提案する。一箇所を美術館にせず、まち全体を「美術地区」にする。全収蔵品を民家・空家へ分散し住民管理にして風化に任せる。(アーティスト管理で生活費や制作費にも使える管理費を支出とか)そうすれば浜松市が世界的な芸術都市のモデルケースになれるかも?
ビフォが#蜂起 や呼吸で度々答えを保留しているのを思い出す。止揚とは即答を我慢して疑問を持ち続ける忍耐力を示しているのではなかろうか。
そうか… ‘Girls’は女性をみくだすニュアンスもありますね。失礼しました。
Open Museum Ladiesじゃダメなん?
‘OML’という略語。K川さんとK閑さんが中心者みたいだから‘Open Museum Girls’ OMGでどうでしょう?
オープン・ミュージアム・ラボのアンケート選択肢について→"権力論で僕が訴えたいのは、選択肢から選ぶのが自由だとした時点で、権力に自由自在に操縦される存在になることです。選択肢が提示されても、「そこからは選ばない」と答える者が正しい。"(『宮台式人類学』ちくま新書)
セミ・クローズドと表現されている対象はその会というよりオープン・ミュージアム・ラボだと捉えました。市民のための開かれた活動ではなく私的な活動のようなので参加者に聞いてみる他ないようです
なるほど… 会場がサイダー・ハウス・ルールですから〈セミ・クローズド〉なのはわかりますが。店主の方が詳細な記録をのこしてくださるといいのですが、せっかく開催したので。
異業種交流でも同じ価値観の下にある異業種同士で交流してもつまらない。交流するだけで互いに血みどろに傷つくくらいの異なる価値観との交流ではないと創造的ではない
すみません、今月20日にひらかれた、元目町サイダー・ハウス・ルールでの〈新美術館について考える〉集いの記録(メモていどでもいいです)って、どこで読めますか?
当然市民を失念しているというのも両方に共通するが、最近は意思疎通が増えて来ているので強くは責めない。
例えばアーティストだって画家と陶芸家と音楽家と……で「異業種交流」はしているんですがね。企業家も芸術家も大きな枠組みを超えていない状態は続いていた。
OMLのアンケートの回答にあった「市民ギャラリーがほしい」との意見は割と切実だと思う。ここでも度々話題になるように特に磐田市が力を入れている点だ。商業が零す仕事を行政がやることが望ましい。
「企業の人たちは異業種交流を積極的に行うのに、アーティストは自分たちのコミュニティの中に閉じこもりがちだとも感じていました。」理由は単純。時間感覚と金銭感覚が違うからお互いを認識できないだけ。但し、最近は橋渡しをしようとする動きがある。
重商主義mercantilismに対するFrançois Quesnayのphysiocratie(重農主義という訳は違う気がして)を感じました。
いや、この投稿が正当化でしたね。後忘れていたことは、私にとっては生業に関係なくみんなが芸術家、表現者、職人であり得るとの大前提の共有でした。
ガセットの話を思い出した。文面だと強制に見えるかもしれないが、単なる記述、報告。理由を示してはいるものの、説得も正当化もしない。日本の空気が強制する事にあり得る解釈を添えたに過ぎない。但し、個々人が考える事は強制していると言えなくもない。
文化の代行者は市民に支持される。委ねる方がラクだからだ。しかし市民へ還付されなくなった文化は全体性を喪い、文化として滅びる。
これは構想ではない。私自身と私が芸術家だと考える人々は既に実行している事だ。
では遠慮なく。無料で参加、観覧するのに気が引けるならば常識の範囲で粗品を持って行けばよい。或いはお土産話も面白いだろう。設営が大変ならば少し手伝う事も出来る。金融資本主義から少し距離を置き、贈与社会を築く事は不可能ではない。
〈どまんなかセンター〉ってのが、いい味をだしていますね。いいとおもいます。
このお知らせ、余りにも自然に収まっている。若干殺伐とした文脈に含めていいのだろうか。
Uホール跡地は草地の公園にして、利用者が思い思いに表現を楽しめばいいと思う。そもそも、学界の就職先或いは左遷先として以外の美術館の価値を現市美に感じられない。浜松市民に失礼。
一応これでも提言書や論文を楽しみにしているのですが、荷が勝ってしまいましたか。
自分で考えたことはたとえ名前を添えなくても自分なりの言い方でいいたい。"「一緒に育てていく」みたいな感覚"のような市民を参加させたことのアリバイみたいなもののためにあちきの脳みそは貸さないよ! オープン・ミュージアム・ラボ
〈「脳みそ」を借りながら〉という言いかたがイヤだ。そう言っているらしい女性は、きっと悪気が無かっただろうけれど。楳図かずおの劇画じゃ無いんだから。
小田原藩の藩医の子だった外曽祖父は外航船の司厨員でした。この娘(外祖母)は家電メーカーの保養所で外祖父と料理人をしていました。味は母が受け継ぎましたが、私は引き継ぎませんでした。
嫌な事でも仕事だから遂行しなければならない。この呪縛が人々を凡庸な悪に駆り立てる。この黄金律への抵抗感は本当に一人だけのものだろうか。
血族で相続することもあれば仲間で相続することもある。直系からの遺産が無ければ杜絶したと見做すのは結論を急いでいるかもしれない。日本の家族の意識、制度は職能に拠っていたので興味があるならばその界隈を尋ねると途切れたと思った先祖の面影に出会えるかもしれない。
曽祖父は仕事のかたわら吟行する人だったが、蔵書や作品が残っていない。自分が勝手に詩歌を詠むようになった後に知った事だが。
先代がたの技術や伝統が引き継げなかった人いますか?自分は祖父母が遠州織物をしていましたが今は不動産業です。技術を引き継げた方々は可視化されますが、そうでない人(自分含め)はどのくらいいるのか気になります。
否定の排除は美しいとされるが、同時に思考停止の免罪符たり得る。
「子罕言利与命与仁」「子不語怪力乱神」人の価値判断はしない事に如実に現れる。否定辞を思考から排除すると適切な評価が出来ない。否定を後ろ向きとか非建設的と捉えるのはこの意味で間違いである。
行政や企業に会計の透明性を求めるのは結構だが、その構成員が家計を説明できないのだから土台無理である。何に金を払うのか、何故金を貰うのか、少しでいいから考えて欲しい。
貨幣に価値を付与する人に社会を構成する全員が再び興味を持てば経済は安定するのだが。もう少し人間を評価し、人間を愛してもらいたいものです。
経済発展や商業の活性化と言わせたいとしたら残念ですね。ただ日常を楽しんで過剰な設計による消費に免疫をつける。そして不可欠な事業に適切な謝礼が出るようにする。要するにBullshit Job撲滅が私の目指す所です。最終的には貨幣の価値の維持に繋がるでしょう。
美術館の結果としての機能がいくつか挙がっているようです。でもなぜそうでなければならないか、それらの機能の行き着く先(「更なる創作へ繋げる」の先)まで考えるのが構想です。市民にそれらを考え繋ぎ合わせる力がないならオープン・ミュージアム・ラボに代行させたほうがマシというものです
Indépendantsのような無審査無条件での出品・展覧の場。Mouseionのような探求と議論の場。そしてなにより、市民の憩いの場。それでこそ〈市民の美術館〉といえるのでは無いでしょうか。
世の中はとかくアウトプットを崇拝するが、アウトプットはインプットの精々千分の一である。良賈深藏若虚。入口は狭く、中は広く。
日本の美術館は画商や評論家や世間が高評価した物を買い集めるので予算が足りなくなる。そうでなくて、収蔵から研究、紹介、更なる創作へ繋げると面白く安上がりだ。
後は、美術館は展示が主なのか収蔵が主なのかという問いも重要。作品の置き場所に困っていると芸術家が時々呟く。収蔵と研究だけの施設があっても良いと思う。
たしかに帯広の人が「浜松は美術館や芸術系関連施設が多くて予算が分散している」と言っていた
脳みそだけの人が存在するらしい。因みに私は生身(erotic body)を持っている。せっかくだから誰にでも前向きな問いに聞こえる事を言うと、既存の公私の文化施設との棲み分けを考えるのが重要な気がする。それを考えれば自ずと予算や効率の問題にも踏み込んだ提案になると思う。
「アンケートを通じて、いろんな人の「脳みそ」を借りながら」ですか、過去に「文化行政と市民との仲介を私物化する新階級」とコメントがありましたけれど、彼らならやりそうですね〜
〈私的なあつまり〉でlab--何を研究、実験するんだろうって、これまでここでさかんに討議せられたことですよね。準備室を英語にしたつもりの‘lab’でしょうし。
openとlabは矛盾している。labをopenにしちゃあまずいんじゃ無いんですか?
そうなると、論語は倫語であり、輪語であったのかもしれない。そして囫圇を目指したのだろう。中国では長らく選抜言語、即ち掄語だったので落第者にとっては淪語だった。
あるいは寺子屋の素読をイメージすればいいのかな? となるとやはり論語か。
適切な国語の試験を作るには倫理的で奇想天外な文章が必要になる。そうであるならば、仮に対応されたとしても子供に多様性を学習させることが達成できるので教育の効果はあるだろう。学習漫画は補助輪としなければ言語感覚が育たない。
勿論「発明者」の同世代にも親世代と同様の状況にあった者が居ただろう。言語の理解力を試すにはその人の持つ世界の外の事を尋ねてみるしかない。皮肉にも理科社会純粋数学の成績の方が言語能力を反映しているのかも知れない。共通テストでメンヘラエッセー風物語や古文漢文が出題されるのも顔色が見えない状態を作り出したいからだろう。
親世代が子供の言葉の位置関係や再帰性などを完璧に理解しなかった可能性は高いが、意思疎通は出来ていたと思う。「顔色を見ながら[…]試行錯誤を繰り返し」て少しずつ適切な反応を学習したのではなかろうか。言語が出来なくても機敏で適切な動作が出来る人は現代でも多いし、実際に社会を支えている。
引用記事では「犬が友達嚙んだ」「友達が犬嚙んだ」と訳すべき。大和言葉にも助詞を使わない形がある。序でに、厄介な日本語話者の研究者は次のように尋ねるだろう。では、最後に「ともだちがいぬをおおかみした」をイメージしてください。
WIREDの記事では"前頭前野の突然変異をもつふたり以上の子どもたちは、互いに会話し合うなかで空間的前置詞や言語の再帰要素を発明した。"とあり、洞窟のなかで震えながら、親世代の知らない言語でお喋りするこどもたちがいたのかもしれませんね
地域・独立系・個人書店の役割は①文明的役割、経営のための商業出版取扱と②文化的役割、差別化のための地域作家冊子取扱だろうか?
〈7万年前〉は最後の氷河期にあたると言われる。洞窟か何かにこもることのが多かったため、そのぶん親子が密接する時間もふえて〈メンタル統合と再帰言語を習得〉するきっかけがうまれた。と考えるなら、引用の学説は納得できます。
"共同身体性をベースとした内発性によって動くサッカーが衰退してきていて、自動機械的な身体の運動、あるいは、予測符号化から言語的予測符号化への移行によって、集合的に表出される力がどんどん失われている"(『宮台式人類学』ちくま新書)ブラジルからドイツへの移行、言語的予測符号化は技術-言語的なオートマティズム #蜂起 の言い換え
宮台真司は1959年生まれなのでそれはないでしょう、唱歌だと思います。「降っても降ってもまだ降りやまぬ」や「兎追いしかの山小鮒釣りしかの川」など
官腔捏情。富貴益難貧。官衙有原因。大和將破綻。酬庶以彝倫。
"歌の合唱で「みんな」の一員になるように、集団の文語朗唱で「みんな」の一員になります。ひとりきりの文語朗唱だけでも想像的な「みんな」とひとつになります。"(『宮台式人類学』ちくま新書)連結Conjunctionだね♪ #蜂起の
"多くの人がデュルケム、ヴェーバー、ジンメルを読解できない理由は明らかで、体験を経て構築される読解能力がないからです。"(『宮台式人類学』ちくま新書)私たち遠州の民はクリエーターとその周辺を体験し、そのうえで読解します。可能なかぎり多くの場へ足を運び、多くのイベントを体験したいものです。
ってことは、人類は7万年まえ、鳥のさえずりのようにしゃべっていた、ってわけですか?(『宮台式人類学』によれば)
暗腔絶情。日日是難局。當事很愚直。吟詩暫慰藉。漢某未就褥。
"歌詞未然のうたの成立は7万年前、うたの分節で語彙が生成した言語成立は4万年前。「うた+言語=言葉」とすれば、言葉の成立は7万年。"(『宮台式人類学』ちくま新書)はじめにうたありき。
“Open Museum Labo”をめぐるこれまでの経緯なんて、まさにSlapsticks Comedyでしょう。
Walker C.Smith“Sabotage”で例証としてあげられてある数かずのエピソードが、マルクス・ブラザーズ、ハロルド・ロイド、バスター・キートン、そしてチャールズ・チャップリン主演の映画そのものだったので、つい呟きました。
貧に清いも汚いも無い。赤も黒も無い。ただ〈貧〉あるのみ。開きなおりにあらず。井上有一の一字書でも無いよ。
privateの語源はprivare(羅)、公的なものから奪い、引き剥がしたものが私。漢字「私」も刈り取った禾
行政と市民との仲介を私物化する事は浜松では現実的な事でしょうか。批評が息を吹き返しつつある詩都では無謀な試みだと思います。
質素なだけで結構泥臭いので清くは無いです。金はあまり無いけれど皆様のお陰で生き永らえています。
皆が目立とうとすればするほど凡庸さが浮き彫りになる。それが「至人無己、神人無功、聖人無名」や「民多利器、国家滋昏。人多伎巧、奇物滋起」の語る現実。#蜂起 で徹底的に技術-言語的オートマティズムを批判したが、実際は私程忠実に従っている者もいないだろう。
片仮名を使わず浜松美術館構想委員会で。どんな組織も人間が関わる以上私を排除できないしすべきでもないから。
浜松・ミュージアム・ラボで良かったと思う。名前と実態に乖離があるのが懐疑の原因だから。今、不気味の谷に陥っている生成映像を見ていたが、生成AIの生成をクリエイティブと形容するのも謎で、リプロダクティブと表現すべき。多分私が言葉に神経質なだけだとは思うが。
伝聞情報だけどオープン・ミュージアム・ラボは、オープンを名乗ってクローズドになったわけではなく、プライベートな活動にオープンと名付けただけみたい。もし本当にそうで市立新美術館構想の提言に3000のアンケートを集める公的な活動をしているのであれば、それは文化行政と市民との仲介を私物化する新階級と受けとめられちゃうけど
1920〜30年代のアメリカのスラップスティック映画みたいですね。
計算機は式を立てる事ができない。算数、数学教育で重点的に補うべきかもしれない。
wolframalphaに聞いてみた。尚、英語で問うと日本語を使うように指示されたため日本語で聞いた。Q:日本の小さな祠の屋根の銅板は幾らになるか。米国原料市場価格に準拠した値で求めよ。A:Wolfram|Alpha 不支持中文。
散々摺られた採用面接の質問に「このペンを私に一万円で買わせてみて下さい」があるが、模範解答の一つか。情報を過剰に与え差別を冀う心理を擽る。
この計算を生成AIがやってくれるなら喜んで利用するのだが現実は幻惑ばかり。
画像の祠、厚みの根拠
https://www.hara‑tei.com/faq/
1m*80cm*0.35mm*(銅板の比重)kg/m=(祠の屋根の銅板重量)kg
厚み0.350mm 巾365mm 1.136kg/m
厚み0.350mm 巾455mm 1.416kg/m
少し丸めて2.55kg
5月中旬に市場高値6.63USD/Lbs=6.63*155JPY/0.4535kg
∴2.55kg*6.63USD/Lbs=(2.55*6.63*155/0.4535)JPY≒5780JPY
あくまで米国原材料市場価
廃素(high society)文芸倶楽部をメイワンの喫茶で開催するならやっぱりスノーウィーカフェだろうか。流石にエキマチでは邪魔だろうしスタバは混むしエクセシオールで集会のイメージはないし。「ウェディング2次会会場としてご好評いただいております」とあるので爪塗(つまぬり)や手芸に興味のある方々に人気だろう。なお、金欠orz。
世知がらい、というか… そもそも銅の相場ってどれくらいなんだろう? まさか電子決済ってことは無いですよね?
おもしろかった! ひさびさに〈ブログ〉らしいブログを読ませてもらったって感じです。〈とびっきり〉の画面もあがっていましたが〈450年以上の歴史〉は、浜松まつりの起源といわれる端午の節句祝い、凧揚げなどをふくめてのことで、ひとが見たら、あの浜松まつりじたいが古くからあるのだと誤解しそう。浜松まつりは、近代日本の祭ですから。
この後社会人向けの集会も企画しているだろう、たぶん、きっと。
きょうは午後3時ごろから曇りはじめ、すずしくなった。聖隷浜松病院まえから空をあおぐ。
81歳男性「フランコ‘ビフォ’ベラルディの“The Breathing”を飜訳してて。飜訳はうまくいったんですが運転に失敗しました。実在する81歳男性の方、大喜利で遊んでしまってごめんなさい」
わたしの路傍流瞥。浜松市中央区城北3丁目(静大側)から同区和地山1丁目をのぞむ。見てのとおり、バス停である。歩道がせまいのでこんな状態になる。
81歳男性「第三次世界大戦を阻止しようとしました。でも失敗しました。この世界線のみなさん、ごめんなさい」
やはり〈ブレーキとアクセルのペダルをふみまちがえた〉事故でしょうか。それとも、暑さで目が眩んだ、とか…
Ctrl+Fまたはメニューのページ内検索(Find in Page)で文書内を検索できます。念の為。
現代日本がクリーンな感じがするのは、即興が必要な伝統的な独裁を脱してポスト全体主義となっているからかもしれませんね。そしてこのポスト全体主義、automatismが言及されているように金融資本主義 #蜂起 とよく似ています
書きわすれましたが、“the technique…”は§Ⅱからの引用です。
80年以上まえの日本をおもう。“(…),the technique of exercising power in traditional dictatorships contains a necessary element of improvisation.”by Václav Havel“The Power of the powerless”
“The Power of the Powerless” §Ⅶですね。やっと見つけました。これは、よそごとでは無い!
地域性とは日本や古来のアメリカ大陸に見えるように環境に根差した個性的な慣習を言う。その集積がlocal collectiveである筈。例の組織は中央、首都からの資本を使った修正なのでcapital correctiveと呼んだ方が実態に即している。
某反民主的で挑戦的な言語活動vol.3での出店が一番開かれている。事前予約も必要ないので現凸させていただきます。
縁故や癒着を続ける為の公募制であるとの言い訳に杜撰な発注をするお役所と同じ雰囲気をキャピタルコレクティブ「浜松オープン・ミュージアム・ラボ」に嗅ぎ付けてしまう。公聴会が事前予約制とは全く公でも開かれてもいない。まずは第一回と第五回のうぃーしきしゃカイギの議事録公開から。
"革命的な行動とは、権力と支配の特定の形態を拒絶し、それに立ち向かいつつ、社会関係を(その集団の内部からさえ)再構築する、あらゆる集団的な行為である、と言えるだろう"(デヴィッド・グレーバー、高祖岩三郎訳『アナーキスト人類学のための断章』以文社)政府を転覆しなくても、自律的共同体を創造する試みは#革命となりうる。
農高の北東。運転手の無事と早い復旧を願う。ところで、家の近所の田圃の電柱の傾きは一か月以上放置されている。社会基盤が揺らいでいる。
路上観察:信号倒壊の交通事故(磐田市)中央町交差点
袋井市月見の里学遊館の月見の紙マルシェ宣伝用の漢詩を画像で投稿する。
批評は地図である、方位はあっても前向きも後ろ向きもない。批評は鏡である、その芸術の向く方を映す。
評論は概念上に於いて破壊的であるが、物理的には非破壊検査である。概念上も非破壊の言説も存在はするが、行間を読めないと無意味だ。傷付けないでと言う人はこの投稿の第一文だけで理解できるのだろうか。
非言語表現専攻だろうが学問である以上は言論で意思疎通するのだから、金や大衆を動かした所で文や数字の読み書きができなければ学界での出世は絶望的だ。
まさか美学の無い人、育む気の無い人が芸術に嚙んでいないだろうか。プラトンが生きていたら哲学の無い詩人と同様に追放されるだろう。浜松で売れる芸術を作る為に働いているのだから後ろ向きな評論で邪魔をしないで欲しいと言われた事は脳に焼き付いているが、はてさて。
美術に関しても学閥が世俗宗教じみている。#蜂起 に倣うと「日本中央大学の高僧」が地方に派遣されている。地域との関わりはそう簡単に数値化出来るものだろうか。美学を金や人数で測ってはいけないとは芸術関係者がよく知っている事だと思っていたが、経済や政治、世間に押し切られてしまったのか。
そんなクローズドな情報をオープンにしてもいいの!?
札遊戯の翻訳で悪魔を使わない話は聞いたが罵倒にゴブリンか。偶にグレムリンなのも笑えるが。ナーディさんが影響力のある論客だったらしい。後、これらの記事を読んで日本の中立性が国際的影響力に繋がっている事に感心すると共にそれが揺らいでいる点を懸念している。
元目町の古本と珈琲サイダーハウス・ルールで「新美術館をみんなで考える」お話し会5/20(水)14:00-16:00 画像はオープン・ミュージアム・ラボのinstagramアカウントより
小学校(いや高校、大学まで?)は社会にとって便利な道具を育成する機関ですから
ある辞書ではアルゴリズムに筆算の訳を当てる。米国の小学生が二桁の乗算を因数分解などして銘々に答えを探す話を思い出した。九九、筆算、珠算など個性となぜを消す利器に戦かざるをえない。初等教育にも技術-言語的オートマティズムが潜んでいてそれは髄まで染み込んでいるのだ。#蜂起
ちなみに-DEMOはdēmokratíaのdēmos(民衆)だったけれど秘匿した。ドコデモアルトは日本語+古代ギリシア語+国際補助語エスペラントからなる造語である。
路上観察:本郷交差点の佐藤商店(浜松市)佇まいが好きな建造物
たしかに、日向にいると27度とはにわかには信じ難い
遅ればせながらビフォ著『呼吸』の序論が終わったのでご笑覧下さい。不自然な所は直してください。また、第二章のファイルを不格好ながら上げたのでそちらもよしなに。
予報どおり、昨日きょうと眞夏日がつづいた。浜松市中央区も暑かったが、風のおかげで猛や酷には至らず、夕方のすずしさに心がなごんだ。かえって山間部がたいへんだったのは〈オクハマ紀行〉によく窺えるところ。渋川も暑かっただろうなあ…