むかしのことば
ぜんぶで 2672 こ / 6 ぺーじ / いま 3 ぺーじ
ぜひ皆さんも路傍流瞥やgenius lociや路上観察のように、クリエイト浜松上で勝手に企画を立てて遊んでください。企画を立てた人が主役です。恋愛リアリティ匿名掲示板とかもありかも?
わたしの路傍流瞥。中央区住吉3丁目から同区和合町をのぞむ。和合町交叉点の南西からいきなり谷がはじまっているってところも、わたしはかねがね気になっていた。交叉点から西へまっすぐのびる道路は、きっと軍用として敷設せられたにちがい無い。幸1丁目からつづく道を嘗ての川と看做せば、谷は交叉点までつづいていたのか。
わたしの路傍流瞥。中央区幸1丁目。料理店〈韓国村〉から南へつづく道(軽四輪がすれちがえない狭さ)が、かねてから気になっていた。画像ではわかりにくいとおもうが、S字なりに南へくだっている。道の両側は、やや嵩だかである。「これ、川の跡?」 道は旧奥山線と鎌倉往還をこえて、本坂街道で途切れる。
お疲れさまでした! 読書会や激論もいいですが、こういう紀行もの(?)もおもしろいです。
浜松市中央卸売市場にてオクハマ紀行51873.9は終結とします。北遠・奥遠州を往復して走行距離174kmでした。
ただ、ですね、土産物屋と古道具屋と二胡のコンサートと雑貨のミニマルシェはやっていたのですが、アトリエけだまのおはなし展は見当たらず。産まれてくる時代をまちがえたか? オクハマ紀行51853.7
二俣どんつき、喫茶あかねのぼた餅をいただきました。ご飯代わりになるかも。オクハマ紀行
早すぎますが、暑中お見舞もうしあげます。中央区住吉2丁目より。
マルカワの蔵は数軒が連なって三遠南信創作工芸村となっているみたい。まんなかの藤屋では二胡のコンサートをやっていました。オクハマ紀行
二俣軽トラ市。小松屋で栃もちを買い、calamusさんにご挨拶する。オクハマ紀行
30度超え、暑い。龍頭の湧水は10リットル100円、水筒は2リットル入るので50円協力しました。オクハマ紀行51822.8
11時前に山住神社参拝後、今年で隠居という茶屋大杉さんで昼飯。山女を二日間餌抜きにして腹を凹ませ串を刺した瞬間に零下三十度で冷凍保存したという山女の塩焼き500円、美味。大杉さんの横に歌碑〈青々と山のこずえのまだ昏れず遠きこだまは岩たたくらし/釈迢空〉オクハマ紀行51800.4
わたしの路傍流瞥。浜松市中央区城北3丁目。静岡大学工学部まえ。茅萱の穂波。
『海やまのあひだ』に、奥領家をたずねた折の一聯がありますね。山頭火も(以前ここで紹介しましたが)奥領家から青崩へゆこうとしてお兄さんにとめられた。で、西の峠をこえて、いまの飯田線を利用した、という…
近くに小歌碑〈山深くわれは来にけり山深き木々のとよみは音やみにけり/釈迢空〉ちなみに水窪は耳塚姓が多い。
古くから、女人の名の多くは墓碑や過去帳に残らなかった(残さなかった?)と言います。萬葉集巻一1歌のように、女人の名は内輪のみのものだった由。そこをふまえての下の句だとおもいます。
北遠も日が高くなり、夏の日差しが照りつけて暑い。山にへばりつくように建ち並ぶ水窪商店街にあるSay U、やっていない。おにぎりが好きなんだな。オクハマ紀行51788.6
秋元康の〈バンドエイドを剥がすような別れ方〉という直喩表現。歌謡曲が古来さんざんコスってきた〈失恋の痛み〉に新たな言葉を与えたものとして面白くはあるが〈まず発想ありき〉的な秋元康らしさも感ぜられる。恋愛ジンクス(好きな人の名を手の甲に書いてその上にバンドエイドを貼る)をふまえての〈リグレットはカットアウト〉か。
山住神社入口の水窪橋に中村正爾の歌碑〈男の神は次郎兵衛様とよ竝びたつ女神のみ名は知る人もなし/正爾〉がある。オクハマ紀行51786.8
あえてあふるると溢れさせたところが恐らく注目点でしょう。しっとり溌溂とした乙女が浮かびます。
山頭火にしては、ほぼ定型をまもっているめずらしい句ですね。
徒らに漢語や片仮名言葉を多用するのも困るが〈福祉〉まで平仮名にひらくのもどうかとおもう。言葉の〈やさしさ/わかりやすさ〉をつきつめると、思考の顎がよわくなる。
喫茶ドンは定休日だった、残念。オクハマ紀行51779.2
下川合のさくマルシェ会場。北遠の地場産品・おみやげ、営業日は第2・第4日曜日10:00より。オクハマ紀行51765.1
路上観察:中央構造線そのもの(浜松市)佐久間には断層地帯の破砕帯があり、これが中央構造線そのものだそうです。
ここがPRINTO? 一階がカラマス浦川本店、二階が図書館やWS絵皿、三階が浦川現代美術館(無料)とのこと。あいてないけれど。おもしろそうな建物である。オクハマ紀行51760.7
大井橋を渡ると句碑〈水があふるゝ山のをとめのうつくしさ/種田山頭火〉がある。ここ西渡より佐久間へ。オクハマ紀行51747.2
賑わう「月 3km」の標識をスルーして月光山海蔵寺の下Atelier Chanvre株式会社のCHi-TTo、やっていない。ちなみに月の由来は楠木正成の月みたいな心の清らかさを地名に残そうと鈴木左京之進が命名したという。オクハマ紀行51723.8
太い道はニュースになりますが、細い道も崖崩れで通れないことがあるので注意して下さい。最近は人手不足で工事が滞っているようです。お気をつけて。
国道152号線を北へ行くなら浜松市最後のコンビニ、セブンイレブン天竜船明店で珈琲休憩。ちなみに営業時間は午前6時〜午後11時のシックスイレブン。オクハマ紀行51719.0
人種は幻想だと思うが、仮に基準を設けるとするならば言語、貨幣、居住地、習慣か。日本語に聞きなせる鴃舌で囀る排外主義者には是非「美しい日本語」の規範を示してほしい。
二俣のどんつき、今日は喫茶あかね with HEARTをやるという。また、モビリティ観光と称して電動バイクglafitを試乗できるようになるらしい。ちなみに今日はクローバー通りでふたまた軽トラ市を開催。オクハマ紀行51716.5
noteに見える日本語教師は福祉など常用漢字を用いる行政書類の頻出語を難しいことばと断じ、近くの役場もしあわせ推進課などと寄せる時代なので口頭では大和言葉以外使わないようにしている。
磐田市小立野から北遠の地「奥遠州」を目指します。オクハマ紀行51699.9
文章作法のひとつ〈やさしい/わかりやすい言葉で書く〉が流布した結果かもしれません。もちろん〈やさしい/わかりやすい言葉〉だけで文章は書けないし、むしろ〈難しい言葉〉を適宜まぜることで、読解力の刺戟、イメージの喚起という効果も生れます。
文章に対して「難しいことばを使っている」という非難は、サッカーに対して「オフサイドトラップを使っている」と非難するのと同じく難癖である。
atago feelsも。オクハマ・ラテン文字文化圏があるのか
Experianceなんちゃらってのも誕生しそう。
どんつき以外すべてラテン文字表記ですね。インバウンド向けなのかしら
同様に個人名とは確固たる領土の名ではなく、曖昧な勢力圏の名なのかもしれませんね。そういえば匿名掲示板もまた個を曖昧にする試みなのかもしれません。
私(I,je,ich...)を分割できない最小単位(individual)と見做すのはどうも馴染まない。社会的にはもっと自由に連結し得る物であり、生物学的には細胞にまで分割し得る物だから。
おむすばに来ないで文句を言うなとはがめつい参加者をどうにかしてという意味の救難信号だったのかも知れない。それに、和やかな雰囲気を作り余白を持たせる一時的な場作りも意欲的だった。事前応募を止めて広く市民に呼び掛けようとする狙いはこれから功を奏するだろう。浜松の現状と可能性を共有する良い取組だった。
オーシャンビューの集落と書いたが、都会と書き直すべきかもしれない。地球温暖化の脅威はすぐそこにある。
板でも実況がありましたが、飯田線は一度豊橋に出なければならず、車の通りやすい道も山で分断されていて、乗合自動車路線も廃止された状況。但し以前紹介があったように「ここには真面目な大人の自動車はやってこないし、長く遠い線路もない」のような場も必要でしょう。出資者の中部電力と揉めているお鄰を見るとどうもそんな気がする。
このパンフ、〈行ってみたい!〉気持をそそる、よくできたパンフだとおもいます。が、クルマをもたないわたしからすると〈行ってみたい!〉→じゃあ、アシは?どうやって行くの? で、つまづいてしまうのです。きょうあす開催の渋川つつじ祭りもそうですが、行って帰るためのバス、電車の便が少かったり無かったりするのが困るんです。
浜松中央区鴨江在住の37歳男性が行方不明とのこと、身長153㎝(広報はままつ)
浜松市街に住む作り手ならばネット上の薄い情報に満足するのではなく、自分の足で併合した北遠を歩いて貰いたい。あんなに興味関心が無くて創作意欲が枯渇しないのは驚くべきことである。
北遠の住込製作所(AiR)は佐久間のPRINTOを初め六箇所話題になりました。浜松A&C機関誌23号(今年一月発行)に共創拠点の情報一覧として載っています。PDFが無いので列挙しますが、他に、JIKKA、CHi-TTo、Say U、LIFE PROJECT GALLERY/HOTEL、どんつきがあります。PRINTOの他は建築、土木関連の有志やリノスクの卒業生が担っているようです。
お疲れさまでした。一部クリエイターの醸し出す拝金主義の雰囲気がよく伝わるreportageでした。「文化に向く兆し」に期待したいです。
方針が変わって文化に向く兆しもあり、大変お世話になったが、あの手の自称クリエイタを改心させない限り残念乍ら槍玉に挙がり続けるだろう。一応発言者の正面で大仰に天を仰いだのだが気付かなかったようで、打つ手なしである。以上連投失礼。もう少し整えて沈黙交易欄にご投稿しますが取り急ぎA&Cの方々と大見氏へのお礼として。(7/7)
オクハマ=奥遠州=北遠のArtist-in-Residenceの場はPRINTO(旧浦川印刷所)などかな?
鴨江アートセンターの〈望楼〉は残してほしかった。耐震性をうんぬんするならタワマンはどうなるの?って言いたくなる。
現代社会が壊滅した後の暮らしの模範を作る実験場と捉えれば意欲的な人が集まってくるだろうとの声掛けも有効だったかも知れない。件のクリエイタには鴨江AC館長のありがたいお言葉を読ませたい。(5/7)
先月29日に亡くなった佐藤愛子氏に関して。わたしが子供の頃はクロスネットの民放が2局しか無くフジ-関西系列12:30からの30分枠「お昼のテレビ小説」はテレビ大分で8:30からの放送だった(9:00からは「小川宏ショー」)。佐藤のエッセイが原作の「娘と私の時間」は河内桃子が愛子役に扮してクリキン「大都会」の替歌「新宿の母」を歌っていた。
当日呆気に取られて意見を伝えるのを忘れたが、氏や場が求めていただろう建設的、創造的な答えとして、北遠には現代社会に疲れた人が来るだろうから酒飲み畑作木工仲間をまったり待つのも良いとか、数十年後には佐久間がオーシャンビューの集落になると売り込めば良いとか、そういう気休めのような励ましが欲しかったのかも知れない。(4/7)
私は、そして願わくはあの場にいた多くもだが、北遠での刺戟を基に暮らしに密着した作品が出来るかもしれないし、それを売り込んで一山当てようとの意気ある作り手を期待していた。残念な方向に転んでしまった。あの空気、銅臭を嫌って芸術家が浜松A&Cから距離を置き批判する流れになったのだと推察する。(3/7)
(1/7)!たのしみ。〈おむすば〉奥遠州Xの大見拳也さんによるトーク
但し、北遠の住込製作所(AiR)の整備について一部のクリエイタから出た提案が粗末だった。情報と事業に詳しい方の前では釈迦に説法だった。即ち資本家や政治家に切り売りせよ、そうすれば入植してやるとの事だった。あれでは文化の弊害、金融資本主義の走狗である。意識高い系を40代にもなってやっているのは傍ら痛かった。(2/7)
気遣い有難う。報告です。夕方に大見氏が話され、細かく調査した佐久間自慢から始まり、共同体に対する筋を通して謙虚に報告されていたのが印象的だった。SBSに勤めながらほぼ無給の佐久間振興事業を立ち上げて精力的に活動されている。北遠に肩入れする理由は単純明快で「■ぬまで地元の皆で酒を飲みたい」という至って根源的な物だった。(1/7)
今是心神醫療時。可浸漬温熱水裡。汝掌上在鎂一錠。深更入眠慢慢地。
吾憮然不能作詩。唯皓皓机上白紙。文藝是人間弊端。子夜輾転奇怪意。
いまはご自身を癒してあげる時間です。温かいお湯につかり、マグネシウムを飲んで、重力に導かれながらゆっくりお休みなさい。
御免、詩を書く気が起きない。一部のクリエイタを指して文化の弊害とは言い得て妙だった。理解したくなかった。一晩考えます。
輓馬野馬番番焉。図馬場馬場牡念。呪詛部牝馬瑠璃。裵𣆶葉盤萬羽辨。
まだ信じていないんだけど、セブンイレブン浜松安新町店が閉業している? 1号線バイパス下り、新天竜川橋の浜松側
真田郷魚話夏場。金子過疎化之沼。間刀刀抜暑島根。那覇空港仲花昇。
爺家事代行露入。卯不衛何部児中。夕餉完食泥状火。右表時時眠前悠。
御結場。迢迢蹬擦汗。欲看畫家團。獨讀單詞本。絕無來鳳鸞。勿論絶無は誇張だが人が少ない。絶句が三首仕上がった。却って集中出来たが独占してしまって忝くなる。
モノクロを流行にする背景で、香害ならぬ色害という概念を植え付けていくといいかも
いっそ〈モノクロ〉がトレンドになって、すべてのカラー印刷がモノクロに変ればいい、とおもったりする。
モノクロですが、初夏の暑さと水張田の眩しさが伝わってきますね。
いいですね。変えられるところから変えていきましょう
落ち着いた雰囲気の交流場、オープンスタジオといった感じになっていました。どうやら方針が変わったようで件の発言も過去のものとなっているのかもしれません。
どこで伺ったか定かでないが、おむすばに出ないで文句を言う者は相手にしないとの発言が関係者からあったように思う。政治参加してきます。
その端切れの出ないデザインを考えて流行らせるのが服飾業界の使命である。市場と一定の距離を保つ会社だからそれを実行する体力はある筈。消費者が生地を育てるのだから会社も一体となって生地を育てる。
モノクロのパッケージに変る告知のTV-CMもモノクロになるのか。新聞の告知広告も?それよりも、新聞のカラー印刷は今後どうなるのだろう?
商品価値を上げるのがデザイナーの仕事だけれど、価値といってもポテチの栄養も味も変わらないのに価格が上がるだけ、実体のない記号資本そのもの。「原材料費と輸送費は上がった。ならばデザイナーと広告屋を馘にして、価格を維持しろ、いや下げろ」という要求は正当だと私も思います。
よく見ると包装からジャガイモのキャラが居なくなっている。懇意のデザイナと手を切った分値段を安くするのが筋というもので、ステルス値上げと批難されても仕方ない。
ナフサや燃料の不足は問題ですけれど、今まで色彩やデザインに購買意欲を促され消費するよう支配されてきた社会のありかたを根底から見直すきっかけになればいいと考えます
ナフサショック、ナフサnaphthaの語源はアッカド語のnaptuで瀝青や液体の石油を指した。だからナフサショックはほぼオイルショック
カルビーのポテトチップスのパッケージも、今後モノクロになるらしいですからね(けさ9時からのDAI-ICHI“DayDay.”)。
sabbath(שבת)と錆ばす(錆びるの他動詞)も掛かっているだろう。発展させずに細々と続くと嬉しい。
わたしの〈仮の〉新・佐鳴八景(瀟湘八景に倣って)。富塚落雁。夢輪帰帆。鳥善晴嵐。入野暮雪。じゃじゃ秋月。漕艇夜雨。SL晩鐘。安座夕照。どうかなあ…
わたしのgenius loci 浜松市中央区住吉3丁目。ここは、鎌倉往還ともよばれる旧道と、軽便鉄道(奥山線)の軌道跡の道路、さらには北東から南西へぬける道が3箇所でまじわり、四叉路が三つもある。そういう場所柄ゆえか、画像にむかって右側にあった山本医院の南に道祖神が二柱居られた。天地約30cmか。画像前方のふたつの石は、その代理か。
地名ねえ… おもいうかぶものとしては富塚、小藪、入野、大平(台)そして佐鳴ぐらいしか無いんですよ。あとは川の名。段子川、新川とか。うーむ…
八景も歌枕などと同じで実景である必要はありません(脱領土化!)けれど、地名の文学的イメージが要るように思います。もちろんそのイメージは地名と関係のあるなんらかの風景(≠実景)なわけで
浜松に徳川財団の所蔵品を集約、そして展覧すれば、ある程度の経済効果は見こめるでしょう。〈ドラマ館〉を収蔵施設にというニュース、おもいだしました。旧・元城小学校のあの広さだと、めいっぱいの規模になりそう。
そうですね、やはり地名や施設名を入れないのは不親切ですよね。もういっぺん考えなおします。
〈新・美術館〉構想って、けっきょく徳川宗家のお宝移譲でしか無かったの? 徳川財団は代々木上原にあって、あのあたりが再開発せられる話は今のところ無さそうだし。わたしたちからすれば今回の〈お宝移譲〉は降って湧いたような話題ですが、かねてからそういう話があったのでしょうか?
疑いたくなるほどのラインナップですね、さすが旧統治機構の遺宝
路上観察:安松町の火事跡(浜松市)やはた橋西交差点の東、いつも通る道だけど今日はじめて知る。
ハママツクリエーターズフェスについても「1700人のお客さんをどうにかしないといけない」という発言がクリエーターからあった。数でしかないし、主体ではない客体でしかない。
泥水を啜るような屈辱を味わいながら生きやすさを求めるか、心の底から笑いながら生きにくさをめざすか
今年で16歳という説もあるのでピノ君ではなくピノさんでしたね
10年まえから〈市民の木〉プラタナス広場に来ているようにおもいます。だとしたら御長寿のポニーですね。
わたしが〈仮に〉えらんだ新・佐鳴八景
北岸東岸南岸そして西岸の景を五行説にならって冬春夏秋ふたつづつえらんでみました。
北岸(冬):二水寒蘆 候鳥棲洲
東岸(春):御前泊跡 青叢游魚
南岸(夏):龍雲墨淋 臨江漕艇
西岸(秋):里山落葉 臺崖歌碑
中田島街道沿いにある手作りケーキのお店Jonchée、ジャーマンチーズはやはり売り切れでした。
路上観察:ポニーのピノ君(浜松市)ソラモにて。小型なので乗馬クラブの出張はピノ君が多いという。
かつて佐鳴湖一周の〆といえば喫茶飛行場だったけれど今はもう無いのでじゃじゃの私設図書館。でも今日はclosed
ここ〈クリエイト〉で、すでに十景あがっていますが…
佐鳴湖東岸から漕艇場方面を臨む。対岸ですれ違った女性二人組とまたすれ違う
佐鳴湖論土sanaruko-rondoが必要ですね
"L'Autre est le Souverain, le Seigneur, le Maître qui me met en question."(Emmanuel Levinas, Totalité et Infini)
路上観察:佐鳴湖掲示板の落首〈佐鳴湖のゴミの多さにおどろきて鳥泣き魚の目になみだ/詠み人知らず〉(浜松市)
肯定的な事ばかり並ぶ批評もあるが、常に書かなかったことを想定する必要があり読解の難度は格段に上がる。謂わば霞ヶ関文学である。まだ否定から入る方が抵抗は増すものの意思伝達にかかる労力は少ないのである。身近な信者の忠告に気付く為に否定的な批評に慣れるべきである。傷付きを乗り越える力を養って欲しい。
"現状はクリエーターを祭り上げるだけ"はその通りで、ハママツクリエーターズフェスのクリエーターに対し或る人は「政治家になった方がいい」と言う。"芝居、賭博、笑劇、見世物、剣闘士、珍獣、賞牌、絵画、その他のこうしたがらくたは、古代の民衆にとって、隷従の囮、自由の代償、圧政のための道具であった。"(ラ・ボエシ『自発的隷従論』)
建設的や優しさの定義の摺り合わせが必要。"本当に信頼できる友人や専門家は、時に反論し、別の視点を示すものです。AIがあなたの考えをほぼ常に肯定するなら、それはAIの性質上の問題(迎合傾向)である可能性があります。"(精神科Q&A【5034】)人間が生成AI化したらそれは「人間が常に主役である営み」とは言えない。
市民誰もが抱え得る幼さをクリエーターと建設的に関わる事によって理解し癒していく。個と個の連結だ。一方現状はクリエーターを祭り上げるだけ。幼い者を引き寄せ搾取する構造に転用されやすい。承認欲求に飢えた人にアイデンティティを貸し出せば幾らでも金を生んでしまう。皮肉なことにこの過程全体が文化不毛の地に見せてしまうのである。
佐鳴湖は汽水湖なので湖岸には藤壺フジツボが付着する。
経験の言語化、そしてカイギや対話を消化しての思想の深化ができていない。ある人が幼さについて言及していて「浜松のクリエーター達はギャラリーアーティストか学内アーティスト、社会では赤ちゃん。批評をしても意味がないのでは?」しかし批評はクリエーターのためではなく社会のために為される。批評は攻撃ではなく皮肉≒治療行為なのだ。
相手の言葉を引用するのは「知識ではなく、経験で話すことが望ましい」との原則に反するからだろうと思う。カイギや対話を経験に落とし込む力が足りない。クリエーターの多くは文が読めない。燻りの原因は批評を理解できないから自分に対して批評ができないという精神構造にある。一言で纏めると幼いのだ。
校門前の旗振り当番。緑のおばさんや学童擁護員がいま求められている、かも?
"El hombre-masa se siente perfecto."(José Ortega y Gasset) 大衆や浜松市のクリエイターは、相手のことばを引用せず自分自身の解釈同士を口論させている。(オープン・ミュージアム・ラボの或るコーディネーター「クリエーターはレスバをしない」)ただ相手のことばに反論するのは中級者、相手のことばで自説を補強するのが上級者。
狂句こがらしの巻、ですね。安東次男の評釈を参照したのかな?
路上観察:トラック休憩場所(浜松市)長鶴交差点北のマクドナルド前は夜毎さまざまなトラックが休憩しているのでトラック運転手の情報網では有名な場所なのだろうか
どこを起点とするか、"既存の思想群を相互翻訳可能にするメタ・フレームワーク"を新たに作るか
そう、世界最初の紙幣「交子」が発行されたのも北宋の神宗時代でした。のちに徽宗時代には兌換停止というまさに脱領土化が行われています。まぁ、王朝そのものが"脱領土化"しちゃうわけですけれど #蜂起
硫化銅を製錬する技術「浸銅法」が確立し硫化銅鉱の岑水場が開発され銅銭が農村にまで過剰に流通している状況を見て、欧陽脩の詩文の弟子・王安石は、青苗法・募役法・市易法といった新法を出します。これに対し師の欧陽脩をはじめ既得権益層=士大夫が旧法党として抵抗したのは王安石の金融資本主義が先駆的すぎたから、とも言えます。 #蜂起
なるほど。〈革命を保守の語法で実行〉。#革命 読書会につながってゆく?
取りあげてくださりありがとうございます。たいへん勉強になりました。
ガラス造形作家増田洋美展「PLAY THE GLASS」5月31日(日)まで13:00〜18:00(土・日のみ)Gallery CAVE(浜松市中央区鹿谷町34-15)
https://www.gallery‑cave.com/ ギャラリーCAVEは2025年春にできた美術家村松正之の設計施工によるアート空間、主催は山内啓司
じゃじゃの私設図書館運営者と利用者の書評、映画評の本を買った。介護の本の紹介に見える思想に感嘆したため購入を決めた。一冊目は完売してしまったらしい。Te La Mondoでは紅茶も珈琲も分からないが祁門の字面に惹かれて大いなる門の前に佇む気分を味わった。
筒井康隆『美藝公』の参考文献に、オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』はありませんでした。確認不足ですみません。
中田島砂丘の一条堤こと浜松市沿岸域防潮堤の上部は風や観光客により砂が剥ぎ取られCSG(Cemented Sand and Gravel、セメント砂礫混合物)が露出している。夜に裸足で登る人が怪我をする危険性がある。
路上観察:中田島町のGraffiti(浜松市)ミッキー420!
路上観察:中田島町のGraffiti(浜松市)ここにもORS
"自由主義は、敵との共存、そればかりか弱い敵との共存の決意を表明する。人類がかくも美しく、かくも矛盾に満ち、かくも優雅で、かくも曲芸的で、かくも自然に反することに到着したということは信じがたいことである。"(オルテガ・イ・ガセット、神吉敬三訳『大衆の反逆』)あなたを批判した人をあなたはどう扱いますか?
"サンディカリズムとファシズムという表皮のもとに、ヨーロッパに初めて理由を示して相手を説得することも、自分の主張を正当化することも望まず、ただ自分の意見を断乎として強制しようとする人間のタイプが現れた。"(オルテガ・イ・ガセット、神吉敬三訳『大衆の反逆』)理由や根拠を示さない、ときどき「悲しい」と共感で済まそうとする。
紺屋町、時代舎さんの新店舗予定地? クリーニング・フランス屋さんのお隣。すでに書棚も垣間見える。
絵本の店キルヤさんで宮澤賢治フェアが11日まで。パロル舎の絵本も今話題の好学社の絵本も。
路上観察:紺屋町のGraffiti(浜松市)おなじみのORS
クリエート浜松で詩の合評会「詩季」がありました。元・超猿族の近江の君さんから「超猿」のお話を聞こうと思ったけれど1回参加したきりで談話会にも参加していないのでよくわからないとのこと。
続)"そうした規則こそ文化の原理なのである。(略)わたしがいいたいのは、われわれの隣人が訴えてゆける規則がないところに文化はないということである。(略)議論に際して考慮さるべきいくつかの究極的な知的態度に対する尊敬の念のないところには文化はない。"(オルテガ・イ・ガセット、神吉敬三訳『大衆の反逆』)文化か野蛮barbarieか
"思想とは真理に対する王手である。思想をもちたいと望む人は、その前に真理を欲し、真理が要求するゲームのルールを認める用意をととのえる必要がある。思想や意見を調整する審判や、議論に際して依拠しうる一連の規則を認めなければ、思想とか意見とかいってみても無意味である。"(オルテガ・イ・ガセット、神吉敬三訳『大衆の反逆』)
"つまり選ばれたる人とは、自らに多くを求める人であり、凡俗なる人とは、自らに何も求めず、自分の現在に満足し、自分に何の不満ももっていない人である。"(オルテガ・イ・ガセット、神吉敬三訳『大衆の反逆』)クリエイター貴族制という書き方をしてクリエイター貴族と書かないのは貴族たる責任Noblesse obligeをクリエイターが負わないから
un monstre sans cervelle se déchaîne. c'est la politique culturelle d'une certaine ville.
溢れたが、家事は立派な事業である。収入増は無いが支出減によって経済的に貢献する。洗濯機や冷蔵庫をなくせとは言わないが、機械の一部は自力に戻せるだろう。設備の手入れや掃除をすれば長持ちもする。
オルテガの「蝟集と充満の現象」hecho de la aglomeración y de la plenitudはさすがにまだ接続connectionの技術はないから、swarmではなくcrowdか。 #蜂起
訂正。〈ガセット〉でした。オルテガとだけ書けばよかったのに。失礼しました。
筒井康隆『美藝公』の参照文献としてあがっていたので『大衆の反逆』を読んだおぼえがある、という意味で、なつかしやガゼット!
"大衆はいまや、いっさいの非凡なるもの、傑出せるもの、個性的なるもの、特殊な才能をもった選ばれたものを席巻しつつある。すべての人と同じでない者、すべての人と同じ考え方をしない者は締め出される危険にさらされているのである。"(オルテガ・イ・ガセット、神吉敬三訳『大衆の反逆』)すべての人≠全体集合、すべての人≒大衆
"ところが今日では、大衆は、彼らが喫茶店での話題からえた結論を実社会に強制し、それに法の力をあたえる権利を持っていると信じているのである。"(オルテガ・イ・ガセット
、神吉敬三訳『大衆の反逆』)hiperdemocraciaについて。ここでの大衆はcrowdでもswarmでもなくla masa。conclusiones de caféは現代ならSNSの結論か
「私のイベント」や「あなたのイベント」だけの発想でとどまっている人がまちづくりに携わると危うい、まちには私でもあなたでもない「彼ら」が住んでいるからだ。だからまちづくりは「彼らのイベント」をやったことのある人が携わった方がいい。
Der liebe Gott steckt im Detail.
"欲望による金融投資は、依存と不幸に続く道を敷いているのだ。"(『#蜂起』p.128)ですね。設備投資も美容整形など同類かも。いまは美容整形費用を賞品とするキャバ嬢オーディション番組があると聞く。そういえば遠鉄の図書館駅前分室へ朝行くとき、よくゆるい服装の若い女性とエレベーターを乗り合わせる。みな8階のSBCへ吸い込まれてゆく。
文化をなまかじりする者にありがちだが、摸造に対して非寛容的である。機械や後追いに真似できない視点や精度を求め続けるのがクリエーター、芸術家、職人に共通する仕事である。俵の短歌を学習した生成AIの成果物が『AIは短歌をどう詠むか』に並んでいたが目を覆いたくなる。生成絵画や動画も同じで飛躍や自由な結合以前に細部が雑である。
財政界が大々的に広告するばかりで文化芸術を楽しむ為の予算や時間を用意しないのならば、クリエーター側が自腹を切るしかない。但し、(私自身は観測していないが)高価な材料や設備を使って他に事業を持たず機械に劣る作品を濫造して生活費が足りないと騒がないようにした方がいい。現代の速度や構造から離れるとはこのような事に思える。
#革命〈洛星高校出身〉でピンと来ました。あとは言いませんが…
ですね。小國神社の勅使参向歌碑〈しきしまのやまと想ほゆ森町の小國神社に勅使出で立つ/川勝平太〉の作者とも
記憶が正しければ『#革命』読書会の課題本第1章には前静岡県知事が登場します。お楽しみに
実はこの構造をよく利用するのがクリエーターで、彼らは財団やA&Cを「あいつらは文化のことを何もわかっていない」と冷笑し、自らの文化度を確保します。しかし財団やA&Cに金を出してもらって文化への無理解を助長するのが彼らというところに浜松市クリエーター・シニシズム #蜂起 があります。
自然のような"文化の全体性"は全体主義からは敵視されますから。ただ、浜松市文化振興財団や浜松アーツ&クリエイションの施策を批判すればそれがすなわち文化的な営為となりアートにもなる構造があって、批判さえすれば批判者の文化人または芸術家としてのキャラが確立してしまう現状は安易すぎて食傷気味である。
欧米生まれの資本主義は激しく競争して振り落とし縁辺化して遊ばせて根こそぎ収穫して高値で転売するという流れがあるのかも知れない。マルクスに批判的でない欧米発の思想界の言葉を使うとこの流れに染まってしまう虞がある。日本人は雪舟を接収して良いのか。
これは完全な邪推だが、浜越の顔ぶれを見ると越境が統一に読めてきてしまう。なぜそんなにも飢えているのだろうか。文明から見たら文化は人間社会よりかは自然のようなものかと思う。文化人は街に出没する熊なのだろう。森に籠りたい気分になる。
生成AIの頭脳や権利を守るために資本家の収奪から切り離すという論調にしないとより効果的な搾取に繋がるだけだと思う。責任、自由、公開性なる遺物は資本家に接収されてしまっているから。
和地山にあった明開堂は夜10時までやっていました。連雀の谷島屋は夜9時、泉町の明屋(はるや)は夜10時までだったかな?
いえいえどうしたしまして。わたしも#革命 読書会を期待しすぎて、さっそくrevolutionの語源から〈廻天〉の出どころさがしをしています。
読書会の集合知のお陰です。多角的に深堀して読む機会は得難いと思います。#革命 も楽しみです。
うまい訳しかただとおもいます。eroticと来ると、たいてい〈官能的〉とか、そのまま日本語読みに〈エロティックな〉と訳しがちですが。まさに#蜂起 読書会での経験が活かされましたね。
『呼吸』の翻訳板では#蜂起 読書会が続いている気分になる。以前不快だとの意見があったerotic bodyは生身と訳す事にした。艶めかしい、生々しいの語幹「なま」を流用した。
si oblivisci vis, bibamus
perseverare humanum quoque.
わたしの路傍流瞥。浜松市中央区和地山2丁目。城北図書館まえの民家である。愛・地球博のキャラクター、モリゾーを彷彿させなくは無いか。
ひょんなことからぐるティアの路上ライブを最前列でみることに
1928年3月、浜松市の追分尋常小学校で小学5年生の木村福一少年が同級生から殴打され数日後に亡くなった。木村少年の出身地は融和運動が支配し、水平社は組織されていなかったという。(水平新聞の見方)
1920年代、浜名郡吉野村の北村電三郎らによる改善運動→融和運動と浜名郡天神町村の小山紋次郎らによってはじめられた水平運動との対立があった。浜名郡可美村の茗荷信三は融和の副会長だったり、磐田郡梅原村には梅原水平社ができたり、運動の動機の違いによる対立があったらしい
竹内康人『静岡県水平社の歴史』解放出版社を読む。"静岡県東部地域の被差別部落の多くが二〇戸以下であるが、県西部地域には、一〇〇戸以上の部落が六地区ある。"
zealを左右反転させるとlæs。これをironiesと解釈してみる。ladsとlæsの集まる賑やかな一か月、いや、三か月だった。
生成AIが時々架空の(恐らく過去に読み取った本の)引用をしていたり、論理の甘い所があったりするが、気付きもある。seelish amputation(鷹目縫合的切断術)とは繋ぐのか切るのかどちらなのだろうか。言葉の超常性、越征性が立ち現れた。(#蜂起 備忘録はそのままで大丈夫です。)
"大"いなる働きによって"文化"と"革命"とを……は陳腐で腐乱臭がしましたね。水滸伝の方が面白そう。
「シニシズムに代わる本当のものは、情熱ではなく、アイロニーなのだ。」#蜂起 p184 の情熱にことよせて、更にドイツ語のseele魂と英語のzeal熱意とを勝手に繋いで論じようと思ったのだが、流石に言葉遊びの域を出ないか。
一応『革命的な、あまりに革命的な』を基軸に進めます。なんでも典拠になりうるので挙げちゃってください #革命
耳が悪く、発音記号も読めないので識者に質問したいのですが、ドイツ語のseelischの発音はジーレッシュで良いですか。
重要参考文献になりそう。一応連結先には『革命的な、あまりに革命的な』とあるが、先立って#革命 で思い当たる本を挙げておきましょうか。
読書でさえも加速し見栄を張るようになってしまった時代に、間違いや傷付けを恐れずに、ゆっくりと且つ直截的にやり取りが出来て知的好奇心が刺戟されました。新たな読書会の形に可能性を見出しました。立ち上げて頂いた共同翻訳にも微力を尽くしたいです。ありがとうございました。#蜂起
#蜂起 ビフォの誤転写とわかりほっとした。ありがとうございます。縫ってでも視界を塞ぎたくなるような譬えだったから。後、誤植のseelishをweb検索したが、selfishばかり引っかかる。権力への恋によって自分勝手に目を綴じてしまう精神的な行為が現代のシニシズムなのかもしれない。
読書会参加ありがとうございます。みなさんのおかげで一般的知性を再展開できた気がします。 #蜂起
旅芸人が「マルテの手記」のジプシー(Egyptian)っぽいですね、と言えば牽強付会か。 #蜂起
邦訳と原書をつきあわせて誤りを指摘、確認しあうほどのクリエイトですからきっと大丈夫ですよ。
"経済科学のようなものが実際に存在するとは思えない"(『#蜂起』p.86)ですからね。"新自由主義者の順応者は、六八年世代のひねくれた相続人だ"(『蜂起』p.187)将来はわからないけれど今がなぜそうなっているのかは歴史を紐解けばわかる。名を匿し連結conjunctionされたら挽肉をまぬがれえるかは後世の歴史家が記述してくれるでしょう。
ドゥイノ悲歌第五歌“lehnenden Leitern”立てかけられた梯子という意味ですが、女性名詞die Leiterの複数形Leiternなので、旅藝人の若い男女がそれぞれ梯子を持って曲藝を披露する、という光景なのでしょう。やはり互いのが梯子をくみあわせた形が三角形なのでMac(慣れなれしいですが)はpyramidと意訳してしまったのでは、とおもいます。
#蜂起 こんな読書会はじめてですよ。日本語訳と原書と校合しながら、でも大変勉強になりました。とにかくすごかった!
おはようございます#蜂起 ‘seelish’についてですが、ドイツ語seelisch(精神的な)の誤りとわかりました。Sloterdijk“Critique of Cynical Reason”p.5にも‘seelisch’と書いてあります。Monoskopというサイトのpdfの画像も送ります。
#蜂起 p185でさらりと流しているseelishと言う形容詞は結構痛々しい。名詞seelは若い鷹の訓練で目蓋を縫合する事を指す。権力が綴じた民衆の瞼の糸を解く日は無いだろうと簡単に予想が付く。人間ならば自制したい。
「[新自由主義経済の]唯一の難点は、複雑に絡み合った出来事の中で、どのトレンドが優位を勝ち取るかは、誰にもわからないということだ。」(#蜂起 p187) まさか挽肉でーすが流行るとは思わない。そして今や誰も覚えていない。最早文化を醸成する遑の無いSNSに挽肉にされた人々が残るだけだった。クリエイト浜松はこの激流から離れているのか。
"アイロニーはどのような現実の存在も前提としないが、シニシズムは、権力、特に経済の権力という、逃れ難い現実を前提としている。"(『#蜂起』p.192-193)前提のない皮肉と食い扶持のための冷笑ですね。明朝ぐらいまでで『蜂起』読書会はそろそろ一旦区切りにしましょうか。全体の感想や書き漏らしたことがあれば今のうちに書いてください。
ドゥイノ悲歌第五歌の原詩の最終連(#蜂起に英訳からの邦訳で引かれた部分)を画像でお送りします。Zgedichte.deという詩のサイトから。
#蜂起 邦訳p.162〜163に〈(ドゥイノ)第五のエレジー〉が引かれている。カーライル・ファレン・マッキンタイアーの英訳を邦訳、誤訳までまんま訳している。〈彼らの忘我の塔、彼らのピラミッド〉原書p.140“Their towers of ecstasy,their pyramid”しかし原詩にdie Pyramideは無い。Leitern(梯子)を立てかけた形をピラミッドと訳したか。
参考までに英漢大詞典には超過、勝過、越出とある。エクセスの音に寄り添って越征はどうか。
前原本光さんの「詩はどこから来る?」こそ“Poetry is the reopening of the indefinite,the ironic act of exceeding the established meaning of words.”(原書p.158)
また、"アイロニーは、シニフィアンの記号的価値を停止して、多くの可能な解釈のなかから自由に選択できるようにする。"(『#蜂起』p.191)ハママツクリエーターズフェスのハママツ・クリエーター・フェスという記号的価値を停止して批評や対話によって市民の共通理解を探ろうとするのがアイロニーだろう。
"アイロニーは、シニカルな行動を合理化するための言語的なツールになることができる"(『#蜂起』p.190)だからオープン・ミュージアム・ラボの「オープン」と現実のオープンとの交換を拒否し、記号的債務の不払い・破産を宣告する。そして「クローズド」という意味の過剰を見出すアイロニーを浜松市で実践することが、蜂起=治療となる。
ex-cedereは「行く」「進む」系のことばなので「過」は欲しいかもですね。過剰とか超過とか
だから、邦訳p.190〈権力の側にいることを望んでいる。〉〈その(法の)正義を信じていない〉かどうかは知りませんが。
"現代のシニシズムの核心には、本質的な嘘が、言論と信念の矛盾が、横たわっている。"(『#蜂起』p.182)"、たとえば新しい浜松市美術館構想を提言するオープン・ミュージアム・ラボの「オープン」のような矛盾のような
またやってしまいました。旧清水銀行の画像をおくります。
そうですそうです。ウィリアム・ブレイクの言葉“The road of excess leads to the palace of wisdom.”過剰の道は智慧の宮殿に通ずる、も〈超常の道〉とすればわかりやすいでしょう。いや、やっぱりexcess=過剰のままでいいかな?
わたしの路傍流瞥。浜松市中央区和地山2丁目。旧清水銀行浜松北支店。好天にめぐまれた浜松まつり3日め。時折つよい風が吹き、中田島の凧のあがり具合はどうかな、とおもう。平日を解体作業にいそしんでいた人たちも、いまは祭に参加しているころか。
#蜂起 〈詩の言葉の過剰〉の過剰を、わたしは〈饒舌〉と受けとってしまいました。だからというわけではありませんが〈過剰〉をべつの語に置きかえたいですね。excess(過剰)も、exceed(超える、上回る、突破する)も、ラテン語のexcedere(外へ出る、すすむ)からきているので、たとえば〈超常〉がいいかな、とおもいます。
旧農村部で、浜松市街域の発展拡大により浜松まつり参加町となった自治会では、秋の(各町内の神社の)祭にも御殿屋台引回しと練りをおこないます。神社境内に公民館(会館・公会堂)や屋台倉庫のある自治会もあり、まったく宗教色が無いとも言いきれないのが〈浜松まつり〉のおもしろい、あやしいところだとおもいます。
そうだ遠州大念仏! 渡邉駿一朗氏の論旨は明解ですね。町中の自治会は大念仏の稽古はやりませんから。初盆の家で念仏送りをする場合、浜北のほうから呼んだりしてました。
共感する。浜松まつりって、ほかの地方の祭と違って農事に関係しないですよね。東さんの言う〈都市の祭〉ですね。
"詩は、不確定なものを再度開くことであり。既定のことばの意味を過剰にする、アイロニーな行為なのだ。" "社会運動というのは、結局のところ、記号論的な破産として、言語や行動、活動を、記号的な債務の限界から解きほぐすメカニズムとして、アイロニーを利用すべきなのだ。"(『#蜂起』p.181)言語の限界を乗り越え、あいだの主体へ
だから「言葉をしぼってけずる短詩型文学」こそ多様な解釈の可能性があることから言葉の過剰と言えるのかもしれません #蜂起
それでいいかと。東浩紀の誤配や郵便的不安とも言い換えられると思います。"アイロニーは解釈の無限のプロセスを意味しているが"(『#蜂起』p.189)
ジャック・デリダのいう差延differanceと散種dissemination、すべてのテクストは誤読せられ、つねにあらたな解釈がなされる、という論旨でしたっけ?
「法被は祭りへの参加資格の証明でもあり(具体的には事故時の保険料などの納入証明であり)、着用しないと凧場には入れないという。」「彼らはなにを祝っているのでもない。強いていえば、自分たちの祭りそのものを祝っているのだ。」東浩紀の評論は勉強になる。
特定の意味や評や作者の考えに解釈が固定されないところに詩歌の、言語の過剰がありそう。 #蜂起
〈浜松まつり〉は不思議だ。だいいち宗教色が無い。雅でも無い。季刊誌「アステイオン」91号(2019.12)のシリーズ「地域は舞台」で東浩紀氏も訝る〈軍国主義の痕跡?〉。わたしもかねて気になっていた。ラッパ隊と練りは進軍を模しているし、統監部の制服もそれっぽい。〈浜松の人々にはそれはあまりに自然で、違和感を与えないようだ。〉
奥村晃作さんの短歌をおもう。かれは至ってまじめに〈こころをうごかされた契機をことばにして歌えば、その感動は読者につたわる〉という信念をもって詠んだだけなのに、歌集『鴇色の足』のなかの〈ボールペンは三菱がよく〉うんぬんの連作が小池光によって〈面白い〉と評価せられ、歌壇内の〈ライトヴァース〉ブームも手伝って話題になった。
きょう3:20ごろ、若い男のさけぶ声が路上からあがり、わたしの寝床にとどいた。だからどうしたってわけでも無い。ただ、ねむれないだけ。浜松まつり期間中あるある。
キルヤさんで買った詩集より、"詩は僕らの周り/いたるところにある/そして、詩は/僕らが来るのを/待っている"(前原本光「詩はどこから来る?」『La plume』一期堂)
松城町の時代舎さんは、紺屋町に移転できただけ幸せかもしれませんね。
物理的に縁辺化される営みよ。良い移転先が見つかる事を願っています。
ソラモの御殿屋台群。別に神事のためなどではなくイベントの都合で屋台を移動させるのが浜松まつりらしさ
浜松まつりのため駅前は人出が多い。北口広場にはスタチュー&マジックの大道芸人Magiaさんもいました。
浜松駅北口でillayが南米音楽路上ライブをやっていました。
punkだとおもう。しかも甘口の。その甘さこそが作者のパーソナリティだとおもいます。
"僕は99%君でできてたから/1%の他人のところにアピールかけるわけにはいかず"(妄想恋愛詩人ムラキング「ストーカー」『ミニ詩集 ムラキングです』祝1号!!)
わたしの路傍流瞥。浜松市中央区、鍛冶町交叉点にて。浜松まつり2日めにして、あいにくの曇天。瘴気が抜けたとおぼしい松菱百貨店跡地をのぞむ。
"市場の領域では、モノはその具体的な有用性から考察されるのではなく、交換可能性や価値交換から検討される"(『#蜂起』p.159)→転売目的の購入。"同様に、コミュニケーションの領域では、言語は、実行されるものとして、取引され評価されるのだ。"(『#蜂起』p.159)→地名などthreadsでバズるから使われるキーワード
わたしの路傍流瞥。浜松市中央区幸1丁目。居酒屋さんのまえの激練り。雨天でも浜松まつりをやるというそのこころ意気。さすがに御殿屋台引回しはやらない。
お駅消した液に悲しやだとは何様や
島根の布飯屋さやしては志摩なのね
下に指すなさは花な仕方金して明智
家化して示唆方はましなの草ですね
聯を一首。 青息吐息 煽らん意図は無きものの/片親パンにあののものの/青狩りの共感主義者に/肩落とす理性の獣 脚韻はほぼ文法韻。若干の字余り。
democracy民主制の一般的な訳語民主主義に独裁者の悪意を感じるのは私だけだろうか。-ismでないのに-主義とは遺憾。
情動的叫喚が支配的な社会において溜息は嫌われる。「共感主義者」は気付かないが、認知的共感を望む声は案外根強い。
浜松まつり、うちの町だけかもだけど5月3日は御殿屋台の引き回しは雨天のため中止、初練りはやるらしい。
路上観察:道の駅潮見坂(湖西市)ゴールデンウィークは午前7時前から満車
そろそろ第3章から第4章に入りますか。"お金と言語には共通する何かがある。それは何もないにもかかわらず、なんでも動かしてしまうことだ"(『#蜂起』p.155)四つん這いで吠えるあいつらを犬・dogと呼ぶ必然性はなにもない。同様にお金の価値にも必然性はない。
近くは市役所から大きいところでは国まで行政が腐敗している。歌にするしかない。
子どもや若者に選ばれる浜松市にするための「浜松学」(中野祐介市長)と学部・専門分野を超えて対話や研究を推進する「遠州学林」(静岡文化芸術大学)と
詩人ではありませんが、言葉狩りが烈しくなってきている。自嘲が差別に転用され軈て禁止される。自嘲したい人は溜息を吐く事も出来ない。これが現代の息苦しさの要因の一つだろう。片親パンもチー牛も元はその類だった筈。#蜂起
"あまりにも長い間、金融階級が社会的身体を圧迫したため、支配階級のシニシズムは、不快感を抱かせるものになっているのだ。","蜂起は裁きの一形態なのではなく、癒しの一形態なのだ。"(『#蜂起』pp.151-152)シニシズム cynicismが登場、これが本著ラストの最大テーマになる。詩人は「実社会の営みを冷笑」するのか? それとも皮肉るのか?
精が出ますね。此方も翻訳をぼちぼち進めようと存じます。
拙いプログラムでご迷惑をおかけしました。プロジェクト数が増えたので役割を終えたと思う翻訳プロジェクトは【削除希望】でURLを教えてください。トップページから外れるまで異論がなければ、そのうち削除いたします。
ソネットの圧縮率は高いので全く知らない事もないだろう。#蜂起 の書きぶりは教授、論述家にありがちな誤解を与えない表現が多い。言い換えも頻りなので諄く感じる。
言葉をしぼってけずる短詩型文学をベラルディは知らないのだろうか?
#蜂起 で述べる詩の言葉の過剰とは論理のような機械的言語で測りきれない言葉の繫がりを言うのかもしれませんね。
第1章うまくいったようであればイントロダクションのtxtアップロードもお願いします!
「.」や「?」のつぎに大文字がくるとセクションされる設定です。夜に試みるイントロダクションでうまくいけば大丈夫だと思います。
章題や小見出しの訳も検討する為にピリオドで区切った方が良いかも知れません。第一章のtxtファイルを準備しています。
たぶん複数人の方がそれぞれ不完全なプロジェクトで作業していると推測しています。統合機能はないので、introduction全文の整形txtファイルをアップロードしたらお知らせします。第1章以降は遠州翻訳隊のみなさんでtxtファイルをアップロードしてください。
kuntradukiloに複数の『呼吸』の板が立っているので暫くオフラインで作業します。統合したら教えて下さい。
路上観察:みんなで軽トラ市いわた☆駅前楽市の看板(磐田市)
とは言え少し考えたけれどこれはアルゴリズムの問題というよりtxtファイルを整形してから流し込もうという話になりそう
ありがとうございます。翻訳上に問題がありそうなのは改ページですね。そこを重点いれて修正します。
#1に章題が入っている。#2に二文が入っている。注釈が悪さをしている;"Finance.1" #17と#18が改ページで切れている。#28にページ番号が割り当てられている。#38と#39が改ページで切れている。#44にページ番号が割り当てられている。他に誤字衍字脱字は無いです。
そこはご自身で企画を立ててください。手伝えることはしますので
アリストテレスが論理学で示した誤謬の数々は確かに論理の途中にあると困る。しかし、同時に表現の契機、論理の始まりになり得る。掛詞、語順、強調、譬喩は全て詩の構成要素である。だから論理学者は詩に筋道を見いだせないだろう。
言語美学科は学際的か。非言語表現の鑑賞批評実作も必要になる気がする。
開学のあかつきには〈言語にとって美とは何科〉開設もおねがいします。
英語の翻訳に関しては安西徹雄の英文翻訳術が参考になる。文庫本もあるので是非。
ウィキペディアには日本語、英語、仏語の該当項目があるが、伊語には無い。イタリアでは楽式名称としての用法を強く意識しないのだろう。
細かいことですが、原文のritournelleはフランス語です。なぜ訳者はイタリア語の日本語読み〈リトルネッロ〉を採ったのでしょう。
これが後の遠州詩学校の始まりであった……。翻訳は言語と思考に直接関係するので詩学の科目の一つとして採用するだろう。
路上観察:浜松まつり凧シャトルバス発着所案内看板(浜松市)飯田公園と凧場をむすぶシャトルバスの発着所案内
えっ、すごい!The Breathingの翻訳が始動するんだ!
原文"ritournelle, or refrain"、和訳「リトルネッロ、リフレイン」と並置されている。でも"ガタリの言い方によれば、リフレインは、このつながりを、特異点と環境のあいだのこの組み合わせ[agencement]を、生み出すことができる唯一の方法なのだ"(『#蜂起』p.150)、リフレイン≒リトルネッロ≒マントラかな。どんなリフレインかが重要か
#蜂起 日本語訳p.148にある〈リトルネッロ〉伊Ritornello 佛Ritournelleがマントラにちかい、いや、=Mantraだとおもいます。
たしかに浜松城・掛川城・駿府城は東海道防衛の重要拠点でしたからね。2019年に徳川家広が立憲民主党から立候補したのもpax tokugawanaと憲法9条護憲の"保守"的つながりからも頷けます。長州選出の奴らがのさばる政党なんかから徳川宗家当主が立候補できませんからね!
浜松城城主の多くが幕府重臣に出世したという(つまり藩内政治を巧みにおこなった)ところから発する保守的空気も大きいのでは? 静岡県西部のみならず中部も保守的だとおもいます。遠江駿河ともに家康ゆかりの地ですから。
"近代資本主義の主な文化的変容は、社会に浸透し、規律を与える、時間認識のリフレインを創造することだった。""デジタルへの移行は、電子的な断片化、情報の過負荷、記号交換の加速、時間のフラクタル化、そして競争というような、新しいリフレインを伴っている。"(『#蜂起』p.149)リフレインはマントラではなさそう。
静岡県西部は山地・平野・漁港があるため農林水産業と工業は盛ん。でも海岸線は外洋に面した砂浜がほとんどで内海の浜名湖にも今切があり貨物船の航行は困難。そのため商港がなく貿易は豊橋港・清水港に依存せざるをえない。商港がないため商人階級や知識人階級の層が厚みを持たず、ゆえに権力からの自立心や民主的な気風が育ちにくい。
やはりAUMとかSHANTIとかのような、くちびるの邪魔にならない発声がマントラにふさわしいのでしょうね。
やってみましたが唇がくすぐったい。ちなみにマントラमन्त्रは漢字だと真言や咒。岡田省二の用語「俳咒」や「柳咒」を連想します。
#蜂起 本文にマントラ(?)が出てきますがspireを語幹とする単語あるいは語幹そのままでもマントラになりそうですね。"be,be,be" "concatenate,concatenate,concatenate"とかありえないですよ。
spirit息に関連する語。spire[spirare]が語幹の動詞は他にaspire切望するinspire吹き込むperspire汗をかくsuspire溜息を吐くtranspire漏れる、蒸散する。spire螺旋[spira]やspire尖塔[spir]と共通する語感がありそう。spurt迸りも元はspirtと綴り発音したらしい。オノマトペに強いて還元すると寝息をすぴーぅと音写できる。一音節語の不思議。
"構成と組換え"(『#蜂起』p.146)Composition and Recombinationのうち構成Compositionが呼吸-連結Conjuctionの側ということか。"When I say composition, I mean a form of shared respiration: cospiration,"でrespirationとcospirationの語源はともにラテン語のspirare呼吸する。
〈虹の橋〉ですね。よく見ると天上界へまっすぐつながっていないんですけどね。
このmanifestoや佳し。すなはち詩の手法技法を陳ぶるのみなればなり。如上に盡く反するも亦一人の詩の創作の手法技法なり。われら詩歌を鑑賞愛読する者須く背反する思攷主張を否まず是を享くべし。彼も是も悉皆その志の之くところに生れし詩歌なればなり。
実物の熊をおそれつつ、テディベア、プー、ダッフィ、リラックマ、ポスくまなどを愛玩する人間の身勝手さよ。
フランコ'ビフォ'ベラルディ集(岩波書店に倣って)全10巻、なんてどうですか?
詩の創作においてmethod手法、技法はあっても、もとより論理は無いとおもいます。たとえば大岡信「地名論」は論述をなしていませんね。詩を形成するのは手法、技法であって論理ではありません。〈論理の欠如〉〈言語の迷宮〉〈美しい比喩〉〈冷笑〉などは全て詩人の技能によるものであり、出鱈目に言葉を並べているだけではありません。
##洞察##を**洞察**に訂正。*この文章はちゃちゃっとgptによって生成されました。AIの出力には不適切な表現や暴力的な表現が含まれる可能性があります。
興味深いですね!この掲示板には冷笑だけでなく定型ではありますが詩の実作も載っています。それについてあなたの分析はあてはまりますか。是非あなたの##洞察##をお聞かせください。
自己責任論への抵抗なのは分かりますが、conjunctionされた人の主体性とかどうなるのだろう #蜂起
ビフォのウィキペディアの経歴を読んで、権威的だとの名目で組織を追い出すのは非常に権威的な行いだと思った。自由人は時にマキャベリズムのスクリーンになってしまう。
著者ビフォの呼吸器疾患の体験が執筆の契機となったそうです。
そう、繋ぎ止めておく。たとえば新自由主義は市場原理を優先し市場と接続Connectionしているだけで経済弱者となった者も「自己責任」とされる。連結Conjuctionはその「自己」が曖昧な他者にするから自己がない以上自己責任はない、という感じでしょうか?反デカルト・親スピノザ的ですね
conjunctionも絆(きづな・ほだし)も、それぞれ語源から、逃げないように繋ぎとめておくニュアンスがあるようですね。
connectionは縁故の意でコネになるから結束に近い。それでビフォが"Conjuction is a becoming-other"とする連結を評価しているのはこのbecoming-otherは集団マントラのような憑依状態になって予測不能な他者?何か?になるからか。構成Compositionの"呼吸を共有するひとつの状態"(『#蜂起』p.146)。Connectionは抜差のたびに感性が摩耗する
同感同感同感! 原書はウェブで閲覧可能なので皆さんといっしょに日本語訳を一から検証したいですが、時間がものすごくかかりそう…
conjunction語幹の語源が軛yokeからきているなら〈縛り〉はconnectionよりも強いようですね。connectorのように、抜差し自由なニュアンスが後者にあるとおもいます。前者は高速道路のjunctionのイメージもありますね。
おはようございますの#蜂起The Uprisingの新訳もいいですけど、未訳のThe Breathing:Caos and Poetryを共同で翻訳するのはいかがでしょう。The Uprisingの第3,4章をさらにふかく論述しているようなので。
conjunctionの語幹の語源は軛(yoke)で、connectionは縛るという動詞らしいです。絆や結束はどちらに近いでしょう。#蜂起
杉田氏の訳がこなれていないので、これを下訳とした#蜂起 の新訳を出したくなる。浜松市文化深耕材団出版部創立記念に無料配本しますか。(言い出しっぺの法則)
この部分は特に生硬です。第二文は「他者は、あなたと連結を始めようとする時、きっと理解するだろう意味の合図を送る。必要ならば意図、文脈、言葉の綾、語らぬことを辿る」が自然でしょう。#蜂起
わたしの路傍流瞥。浜松市中央区幸5丁目、からあげ定食専門店〈からやま〉前にて。豚メンチからあげがうまそう。
取材して苦労話を聞きだすのが一つ。支えられた事実を謙虚に認めると人格者との名誉も得られるが見栄っ張りには難しい。それこそ幼馴染だった事実が■人の動機になるくらいだ。
連結Conjunction/接続Connection(『#蜂起』p.142)ConjunctionからConnectionへ移行させられ脱感性になると否定的に捉えている。また"あなたと接続する他者は、"(p.144)の「接続」は「連結」と訳さなければいけないのに誤訳"Conjunction entails a semantic criterion of interpretation. The other, who enters in conjunction with you, "
マジレスすると、詩歌の個人ブログを生成AIが学習してSNSや企業の宣伝に利用しているのでその皮肉は的外れですね。此処の管理者も「固有名詞・定義・新造語といった種を置いておくことで数カ月後の社会に遅効性の薬(あるいは毒)として作用を及ぼすための実験場」と述べている通りです。誰も記号-資本主義から逃れられない。
"論理を具に書くのは記号-資本主義に巻き取られるだけです。"はひとつの自衛策ですね
excite無頼漢翻訳「ごちゃごちゃうるせえ!どいつが気に食わねえんだ?殴ってやらあ」
この指摘自体が詩的迷宮に入っています。具体的にお聞きします。著しく論理性の欠如した詩や詩人と論理性を保っている詩や詩人を幾つか挙げてみて下さい。
私は論理の初めと終わりを抽出して詩にします。論理を具に書くのは記号-資本主義に巻き取られるだけです。疑問や違和感を提示して私はこう考えました、あなたはどう考えますかと問い続けるのです。後、象徴語や譬喩は用いずに辞書通りの意味で捉えられるようにします。詩人が世界に直接の影響を与えるのは翻訳者として働いた時位でしょう。
論理の欠如は深みにはなりえないかと。詩に深みを与えたいのであれば記号論理と形式を乗りこえてみるといいですよ。そのうえで、実社会の営みに尊厳を押しつぶされた他者や自己の痛みを詩材にするといいでしょう。決して沈黙することなく書き続ければ、新しい言葉の贅沢品を手に入れられるかもしれませんよ。
詩人は、論理の欠如を「深み」という美名でごまかし、言語の迷宮に逃げ込む傾向があります。他者の痛みすら美しい比喩へと加工し、実社会の営みを冷笑しながら、その実、言葉の贅沢品を玩んでいるに過ぎません。彼らの沈黙が世界に何の影響も与えないという事実こそ、最大の皮肉です。
「実際網上の価値化の過程の瞬間瞬間を明確に識別できない。網上の生産力は集合的である一方で、利益は私的であるからだ。ここに見えるのは網上の集合的知性と私的専有の間の直しようがない矛盾で、記号-資本主義の正に根幹を揺るがしかねない。(#蜂起 p135)」 少し訳に手入れしました。この厳然たる事実の前で誇ってしまえるのが米国的気質。
路上観察:更地の手押しポンプ(浜松市)中田島街道沿い
『ナニワ金融道』『闇金ウシジマくん』はいわば社会の底辺を描き、「ザ・ソーシャル・ネットワーク」はハーヴァード大学という上流階級を描く点を思いました。映画「Winny」2023
https://winny‑movie.com/ は、今の金融資本主義を描くドラマとしてどうでしょう?
〈友情の不可能性〉〈連帯構築の不可能性〉さえ物語にしてしまう聖林よ(制作・配給はコロンビア・ピクチャーズ)。『ナニワ金融道』『闇金ウシジマくん』などの日本のマンガがおもしろいのは、金融ドラマの要素もあろうが〈人間ドラマ〉の要素が大きいからでしょう。〈脱領土化〉せられた現今の金融資本主義はドラマたりうるか。
けさ、居なくなっていました。落し主がみつかったのか。
わたしの路傍流瞥。中央区幸4丁目。『こびとづかん』のホトケアカバネが、側溝の蓋のうえにたおれていた。ここの道はひろく無いので、人や自転車、クルマなどに踏まれては大変と、画像のように姿勢をなおした。
画像をわすれてすみません。以前は白かった南どなりの聖隷パーキングビルも、いつの間にか外装を変えていました。
中央区住吉2丁目。遠州栄光教会住吉礼拝堂。以前は白い外壁に蔦がからまって風情があったのに。きれいになりすぎ。
わたしの路傍流瞥。中央区下池川町16番地。2年まえの6月29日午前6時半ごろ、通行人や近隣住民から火災発生の複数の通報があり、約4時間半後に鎮火。60代男性の住む2階建の家屋が全焼し、隣家も一部焼けてしまった。焼跡はそのまま今に残っている。坂本龍一のピアノと競って〈自然に還る〉つもりか。
浜松市中央区中沢町7番地。ヤマハアーチェリー場跡地。これ、何て読む?
いやあchargeむずかしい。というのも、そもそもラテン語のcarrus(二輪車)、carricare(車に荷を積む)に由来して、荷を積む、負担をかける、責任を負わせる、委任する、さらには金を積む、充電するなどと語義が多様に派生しており、chargeは課金と入金のどちらとも意味が取れてしまうようです。
そう、ここ鋭い指摘ですよね。ソーシャルゲームなどの「課金」の意味が請求から支払いへ変わりつつあるのは、請求というプロセスを意識することなく自動的に支払っちゃうような身体にゲーマーたちがさせられているのかも
そうでした! 〈課金〉はもともと金を課する、請求する意味でした。英訳すればchargeとなるはずですが、スマホでしらべるとpay,spendと、日本語どうように英語でも意味のスライディングがみられます。
撤去されるアクトシティ連絡通路の動く歩道。お疲れ様でした
浜松駅北口広場の大道芸。数年にわたり何度かここで似たような大道芸を観てきて、これから海外へ行く話は聞くけれど、行ってきましたという話は誰もしない。最近はpaypayのQRコードも用意されている。
"『モモ』という物語は貨幣経済社会がいかに人間を損なうかを描いており、利子が利子を生む貨幣のあり方を鋭く批判したミヒャエル・エンデの考えが顕著に表れている。"(尹雄大 『モモ』のメッセージ、中日新聞2026.4.26)『#蜂起』読書会参加者ならこの「貨幣経済社会」を金融資本主義と呼べる
中日新聞2026.4.26中日歌壇〈片恋に患ひしごと痩せ細る粋な話ぢやない我は癌/浜松市 斉藤佳彦〉結句が深刻。中日俳壇〈AIに訳させやうか恋の猫/湖西市 市川早美〉猫の恋ではなく恋の猫が肝
"精神的資源の枯渇は、サイバー圏の本質的な限界なのだ。"(『#蜂起』p.132)インターネットは広大だけど無限ではなかった
三ヶ日俳句研究会水鳥発行所〈亀鳴くを確かめたくて池一日/中嶋克明〉帰ると鳴く。〈風に和す桜大樹の鼓動かな/山下六弦〉樹の鼓動は新味。静岡新聞2026.4.28読者のひろばサロン
「椎」新樹句会〈四季を詠む若きラッパー風光る/森田佳代〉不易流行ラッパー〈花筏一片離れ悠々と/鈴木和枝〉実は流されている。〈俳諧のきざはしをゆく胡蝶かな/つげ葉子〉一段がめっちゃ高い、選者:〈山の気のここに集まる木の芽かな/村松二本〉静岡新聞2026.4.28読者のひろばサロン
金融資産の演算を行う電力の素を燃やす。その上で発電ペダルを漕いだ量に比例する資産を相互承認する。或いは通信や送電の施設を壊す。アフリカの水道管泥棒と同じだが。文化を壊す文明を壊す。
ブルジョワbourgeoisでした。このことば、フランス語のbourgに由来してドイツ語のburg(ハンブルクなど)やアラビア語のbrujبرج(ブルジュ・ハリファなど)と城塞を意味する単語と類似しています。或るすぐれた城塞様式がギリシア語ΠΥΡΓΟΣを介して西ユーラシアで広まったのかもしれませんね。nummi verbique pervagantur.
pp.128-129に物質的な資産にむすびついたブルジュワ階級と領土にも物質生産にも執着していない金融階級の対比が描かれています。お金が欲望の代わりになり、資本家=金融階級だとすれば燃やすものはなさそうです。それとも電子マネーを溶かす? "金融の時代には社会的無意識が爆発するのだ"(『#蜂起』p.129)
映画「イニシャライズ」出演:日比虹太郎・古館真実・谷村優樹など、友情出演:橋爪健二、特別出演:熊谷真実、監督:原宏樹
https://x.gd/QixbF 先行試写会 耕祭 -kou sai- 6月14日9:30〜卸本町アルラ
脱領土化(deterritorialization)が長いので非現実的で実際と無関係の地域性や実体験とかけ離れたお題目をお空ごと(celestiality)と造語したくなる。
過熱したポトラッチのように資本家が金融商品を焼き捨てると富の不均衡が和らぐのだろうか。
金融経済は単為生殖的なプロセスだ(#蜂起 p124) クローン技術に見るように自己複製には限度がある。永久に加速し続ける金融経済も暴力に代わる価値を持つ何かと次々に交わらなければ本当に無意味になりかねない。忘れがちだが、実物の交換に貨幣の仲立ちは必須でないのだ。
静岡新聞・読者文芸・詩 "取り残された/魂がホームで列を作っている"(井村たづ子「惜春」)何を待っているのか。"血まみれの俺の長い手紙"(水野満尋「カタルシスの病」)それ、読んでみたい。野村喜和夫の選評は「ジャンク化した季語」について。
静岡新聞・読者文芸・短歌〈娘に少し甘えたくなりこの寒さ耐え難しなどメールを送る/森町 山浦葉子〉山はまだ寒い。〈抱き寄せし君のからだのしなやかに凍る天空星座回りぬ/掛川市 松本節子〉星座が動くほどの長い時間を抱き寄せていたのだ。牧之原市は後日
課金の意味の主客転倒は"技術-言語的なオートマティズムが、社会的身体の隅々まで配線されてしまっているような状況のなかで、わたしたちは主体化のプロセスをどのように考えることができるのだろうか?"(『#蜂起』p19)で言及されている曖昧な主体の結果とも捉えられます。
米国がepic fury作戦なるものを実行したが、epicもfuryもゲームの常套句にしか聞こえず、神の怒りとは感じられない。課金は本来お金を請求する事だが、ソシャゲの用法が広まっている。ビフォも脱領土化等術語を好むが、社会科学の本を読む内に既存の枠組みに取り込まれたように見える。習慣は言葉を規定する。
スマホゲームに関してはデータの抽籤販売も問題だが、時間を吸い取る効果も大きい。時間で回復する遊戯権利つまりスタミナやエネルギーと呼ぶ数値の働きも多分に悪魔的だ。正に時間と注意力で物を買わせている。
文学系ワークショップの合宿を文學營と呼ぶのかっこいい
わたしの路傍流瞥。浜松市中央区幸4丁目にて。暑いというのでは無い。時折すずしい風が吹き、日蔭も心地よいが、午前11時の日差は強く、アスファルトの鋪道に影絵をえがく。空には積乱雲が立ちあがり、夏到来の予感がする。
スマホゲームの課金は、本文中の宝くじlotteriesからの連想で、ガチャなどが想定できます。ゲームで強くなりたいという欲望を必要性に変え、実体のないアイテムへ課金し、それをゲーム内で高値で売りさばくのは=金融投資ではないかもしれませんけれど金融記号による数学的奴隷制の一種だと考えます。
課金はpurchase,charge,pay,spend等と訳せられるので、投資invest(ラテン語investire=服を着せる→お金を新しい形に替える)とはちがうとおもいますが、どうでしょう。
静岡新聞・読者文芸・俳句、〈菜の花蝶と化し母いま召されゆく/磐田市 大庭あつ子〉天へ〈見当たらぬ五人囃子の太鼓撥/浜松市浜名区 大城明彦〉紛失〈草餅を作る子の口一文字/磐田市 江端芳枝〉やがて開く〈吾子呉るるたんぽぽと云ふ心かな/袋井市 大草高〉心!〈犬ふぐり男はなべて小心者/掛川市 堀内勲〉犬ふぐりが効く。県西部は少ない
おととしの中日新聞(東京新聞)〈平和の俳句〉にて。三世代いくさ知らずや田水張る 荒川訓子。浜名区引佐町の方。
rebrandingかclosingか。そもそもいまの浜松市にホテルは多すぎるので、淘汰は仕方が無いのかもしれません。
"あなたは、あなたが騙されているおかげで繁盛している銀行の債務者というわけだ。欲望を必要性に変えることで、欲望による金融投資は、依存と不幸に続く道を敷いているのだ。"(『#蜂起』p.128)宝くじ・ネットトレーディング・クレジットカードなどの例があげられているけれど、あとはスマホゲームの課金かな
〈オクハマ〉のオの字をもとに、ゆるキャラが誕生しそう。
読書会でひとはことばを得る、それが何のためになるのかなんて知らないまま
مقاتلة العرف مضنية، فهو لا يفكر